私は若い頃から、あまり生きる意欲のない人間でした。
なりたいものもなかったし、やりたいこともありませんでした。
むしろ、「死」に憧れました。
いや別に、死にたかったわけではありません。
漠然とぼんやりと、早くこの世から解放されたいと、よく思ったものです。
そんな私、あることがきっかけで、重度の鬱病にかかってしまいました。
それは大変な状況が何年も続き、入退院を繰り返し、今は落ち着いてはきましたが、山ほどのお薬を飲んでいます。
鬱病(後に躁鬱病と診断が変わりましたが)は、人から「生」の全てを奪っていく驚くべき病です。
根こそぎです。根こそぎ奪い取っていきます。
生きている意味もわからなくなり、生きていていいのかと悩むようになり、自らの存在がいたたまれなくなり、適切な治療と援助がなければ死に至る病です。
私もまた、そのような状態に陥りました。
生きていたくない。
もういなくなってしまいたい。
私がいるから、何もかもうまくいかない。
郵便ポストが赤いことすら、私が悪い。
本当にそう思っていました。
その時、私にとって、キリスト信仰は邪魔でした。
幼い頃から頭の中に刷り込まれてきた聖書の言葉、それらが鬱陶しい。
そんなものがあるから、死ねない。
聖書の言葉が私を責めました。
そんなものいらない。
ほしいものは、暗黒のような死でした。
たくさんの人が、私のために祈ってくださっていました。
小さな私のために、私が癒されるように。
そんなものだって、邪魔でした。
この世から消えるためにがんばっていたのに、いらぬ鎖となりました。
しにたいしにたいもうこんなのはいやだ。
みんなどうしてわたしをころしてくれないの。
勇気のない私は、何も実行できませんでした。
もちろん、結果的にはそれで良かったのですが。
病気になってもうすぐ20年、ここ数年はすっかりそんな気持ちを忘れかけています。
けれども、「聖書の言葉が邪魔」、この気持ちは忘れない。
なぜ忘れてはいけないのか、自分ではわかりません。
なんだか忘れてはいけない気がするのです。
信仰豊かな人は言うでしょう。
「イエス様はそんなあなたと一緒にいてくださるんですよ」
そんなことは言われなくてもわかっています、理性では。
もう少し気の利いた人ならば、こう言うかもしれません。
「そうか、そうなんだね、うん、うん」
傾聴ですね、ありがとうございます。
みんな、鬱陶しいよ。
こんな風に人柄がガラリと変わるほどの病。
苦しめられたこと、今も苦しみが終わっていないことを忘れない。
しかし、そこからほんの少しだけですが、解放されかけている私。
今ならわかります。
鬱病は「死ななければ治る病」です。
治るために、聖書もキリストも必要ありません。
ただただ、休むこと。
自分を甘やかすこと。
世の中の役に立たなくてもいいんです。
私がいいと言ってるからいいんです。
死なないでください、治るから。
私を見てください、ちょっとだけど良くなった。
生きて。
生きよう?
私も死ぬまで生きます。
ダラダラと、サボりながら。
誰かに、伝わればいいなと、思っています。