ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

羨望と愛と

私には、とても愛している友人がいる。

彼女と会って話すことができるのは、私の喜びだ。

しかし彼女は忙しく、私も病身で体調が整わず、会えるのは一年にほんの少しだけ。

だから会える時や、SNS等でコメントやメッセージをやり取りする時は、彼女の存在に深く集中している。

 


彼女は人気者だ。

私にはそう見える。

おそらく共通の知り合いも、この考えに同意するだろう。

彼女が口を開けば、多くの人が彼女の方を向く。

当然だ。

彼女はとても魅力的なのだから。

魅力的だから、私も彼女を愛する。

彼女が皆から愛されているのを見ると、私まで嬉しくなる。

まるで私自身が愛されているかのように、誇らしくなる。

自分が彼女に友人として認めてもらっていることを、私は心から喜ぶ。

 


だから私は、神様に感謝するのだ。

神様、彼女に出会わせてくれて、ありがとう。

一生、良い友人でいさせてください。

私はとても彼女を愛しています。

彼女が幸せでありますように。

彼女の人生を守ってください。

私が彼女の役に立てますように。

 


そして、私は少しだけ思うのだ。

 


「そんな彼女が、羨ましい」

 


いいな。

いいなあ。

 


いいなぁ…

人気者で。

みんなから愛されて。

私なんかより、たくさんの人に愛されて。

年も私より若くて、顔も髪もきれいで。

頭も良くて、自分の考えを持ってて。

結婚もうまくいっていて。

仕事も充実してそうで。

身体も元気そうで。

いいなぁ…

羨ましいなぁ…

 


ここまで思って、はたと我に帰る。

なぜこんなこと思ってる?

羨ましいなんて、考えても仕方ない。

彼女になりたいわけじゃない。

私には、私の良さがあるはず。

だから彼女だって、私と友達でいてくれるのだ。

羨ましいと思ってるなんて、知られちゃいけない。

こんなみっともない気持ち、隠しておかなくちゃ。

さあ、いつもの私に戻ろう。

彼女を裏表なく愛する私に。

 


***

 


愛することの反対は「無関心」だと言われる。

これはまず間違いのないことだろう。

しかし私はよく感じるのだ。

反対、というよりも、背後にあるもの。

愛することと背中合わせにあるもの。

それが、「羨望」だ。

深く愛すれば愛するほど、相手のことを羨ましく感じる気持ちが出てくる。

恋愛関係や結婚関係というよりも、友人関係でそれは顕著だ。

自分にないものを、あの人は持っている。

それがとても魅力的。

自分にないもの、すなわち「欲しかったけれど備わらなかったもの」を持っている。

私もそうしたかった。そんな風に言いたかった。そんな風に振る舞いたかった。

でも、できない。

本来の自分には備わっていない資質だから、真似をしようったってできない。

万が一、真似をしたら、どれほどか見苦しいことになるかわかっている。

 


だから、その羨望を飼い慣らす。

羨む気持ちは暴れ馬だ。

飼い慣らすのは難しい。

けれども、コントロールしようと思えば、できないこともない。

 


飼い慣らすには、隠れた羨望を抱く自分をためらわず、その相手を思う存分、今以上に愛することだ。

ここで、愛と羨望がちょっとだけ戦う。

愛したいと思う気持ちが勝つか、羨ましく思う気持ちが勝つか。

前者が勝つような友人に巡り会えたのならば、とても幸せなことだと考える。

後者が勝ってしまう友人からは、多少の距離を置いて付き合う方が安全だ。

 


この文章の冒頭で述べた友人は、私にとって「愛したいと思う気持ちが勝つ」人だ。

そういう人については、不思議と「この人もただの人間だ」と感じることができる。

つまり、私と同じように間違い、馬鹿馬鹿しいことを考え、誰かを羨み、ねたみ、鬼のような思いで一杯になり、人生を苦しんでいる。

そう、彼女も私と同じ「人間」なのだ。

 


もしも羨望の方が勝ってしまうような友人がいたならば、恐らく私はその人の苦しみや悩みなど想像もしない。

羨ましく思う気持ちばかりが先に立ち、ねたみで自分を一杯にしてしまうだろう。

膨らんだ羨望とねたみは悪意となり、「なぜ私はあの人のようでなかったのか」と怒りを産み、いつか傷付けたくなるだろう。

要するに、その人を「人間」と認めていないのと変わらない。

悲喜こもごもあっての「人間」であり、「人生」であるはずなのに、その人には苦しみも悲しみもあるとは思えず、ただ「私にないものを苦労もせずに手にしている」と決め付けて、まるでお人形さんのような存在におとしめているのだ。

そうやって考えていくと、羨望や嫉妬の類は、本当に恐ろしい。

 


しかしこの感情は、全ての人に、間違いなく存在する。

小さな赤ちゃんからお年寄りまで、漏れなくある。

普段は気付かないほどに小さな「いいなぁ」を見つめてみると、実は大きな落とし穴が待ち受けている。

私は時折これを見つめ過ぎて、自家中毒を起こすことすらある。

 


自家中毒を起こしがちだった私が、羨望を飼い慣らすことを覚えたのは、冒頭の友人に出会ったことがきっかけだった。

生まれて初めて、羨みよりも「この人をもっと愛したい」と感じる気持ちが勝った人だったからだ。

彼女と一緒に話していると、とても楽しい。とても気持ちがいい。

それはきっと、彼女が私を愛してくれているからだ。

彼女の愛情によって、私自身の承認欲求も満たされるのかもしれない。

承認欲求などと表現するととても嫌らしいが、人間は認めてもらいたい生き物だ。

否定しても仕方ない。

これではまるで彼女を自分の欲求のために利用しているようだけれど、そこは恐らく利害が一致しているはずだ。

彼女も私と一緒にいて、承認欲求が満たされているのではないかと想像する。

人間の感情は複雑で、きれいごとだけでは済まない。

汚い嫌らしい感情も含めて、お互いに気持ちよく心が重なり合うと、そこに愛情関係が生まれるのだと思っている。

羨望、ねたみ、承認欲求、そんなものを抱える自分。それを受け止めてくれる彼女。

全て含めてみても、どうにも魅力的ですてきな友人なのだ。

できることなら、一生の友人でいたい。

もっともっと彼女を愛して、良き友となりたい。

羨ましさや悔しさが負けた瞬間だった。

いや、愛情が勝った瞬間だった。

 


羨望はどんな人も持っている。ねたみは人間の心の悪友だ。

しかし、それをためらう必要はない。

不自然に蓋をしてしまうと、自分自身が壊れることもある。

羨望を持つ思いと、愛したいという思いを、思い切って天秤にかけてみてもいい場合もあるのではないか。

あまりに羨望やねたみが勝つようならば、その相手とは付き合い方を考え直すべきなのかもしれない。

 


そして、愛したい気持ちが勝つ友人と出会えたならば、出会いに感謝しよう。

私は彼女に出会えて、本当に、心から、どうしようもなく感謝している。

たとえ彼女にとっての私が、たくさんいる友人のほんの一人であったとしても、私は感謝している(きっと特別な友人であると、実は確信しているが)。

ありがとう、羨ましいほどの人に出会わせてくれて、と。

 


私の中で、羨望と愛は常に戦っている。

死ぬまで戦わせながら過ごすのだろう。

そんな自分はとても人間らしいと感じる。

 


彼女に出会ったのちは、それ以上に羨望と愛情を戦わせるような人には、まだ出会っていない。