ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

消えゆくフラッシュバック

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朝の空を見上げて、懐かしいメロディを聴いている。globeのファーストアルバム、1996年の作品だ。

 

これを買って聴いていた頃、私はとある団体で正職員として忙しく働いていた。まだ二十代で、平成が滑りだして十年になるかならないかの頃だった。職場環境はとても良くて、職員仲間は皆仲良く、毎日の出勤はそこそこに楽しみで、仕事はきついが充実した日々。

 

まだ、将来の暗闇のことなど、知りもせず。

目の前が実は地獄だったことに、気づきもせず。

 

記憶を呼び起こすものは、音と匂い。メロディと香り。絹を切り裂くように現実の中に現れるワンシーン。その瞬間の洋服の色と雑踏の感覚。

 

以前は、この揺さぶりが恐ろしかった。一瞬にして、自らの精神を不幸な過去へと引きずり下ろす記憶のいたずら。別の言葉を使えば、これはフラッシュバックという。夢ではなく、現実の中でも最も現実的な黒い影なのだ。悪夢の恐ろしさも嫌なものだが、眠っていないのに訪れる揺さぶりはもう、手の施しようがない。

 

最近、どのメロディを聴けば感情がマイナスに、もしくはプラスに振りきれるのか、少し観察してみたりしている。こんなことができるのも、回復してきたからだと自覚はある。それでも聴きたくないと感じたものは即座にスイッチをオフにする。とはいえ、聴き続けていても、苦しくなることはない。以前は耳を塞ぐばかりだったし、そうしたくないから嫌な音楽は選択すらしなかった。どんなに好きなアーティストの歌であっても。とうの昔に廃棄したCDもある。もちろん、とっくに廃棄しても、もうそのCDが誰のどんな作品であったかわからなくなっても、喪服についた線香の匂いの如くまとわりついてくる空気感は今もあるのだが。

 

ほんの些細な、もしくは非常に重大なきっかけで、フラッシュバックがプツリと途切れてから数ヶ月が経過した。思い出すことは多い。しかしその中に取り込まれて、室内にいるのにいかだに乗って漂流するような状態に陥ることはなくなった。世の中の全ては私が悪くて、郵便ポストが赤いのですら私が悪いという謎の思考回路に苦しめられていたのに、急速に、私は何も悪くなかったとのパラダイムシフトらしきものが起こった。そう、被害者は悪くない。いじめられる子は悪くない。少数派は悪くない。私が持っていたはずのぼろぼろのいかだは姿を消し、灰色の荒れた海はどこかへ行ってしまった。

 

そのかわり、今まで大切だったと感じていたものまで、目の前から少しずつ消えていく。いや、私がそれらから手を離している。しがみ付いていたあの子もこの子も、あの人もこの人も、古い友だちだったはずのものも、手を繋いで丸くなって踊っていた仲間も、私は手離している。するすると巻かれていく毛糸のように去っていき、私の手にはわずかなものしか残っていない。果たして手離したそれらは「大切」だったのだろうか。本当に必要なものだったのか。もしかしたら、好きなものではなかったのかもしれない。しがみ付いていなければ、心配だっただけなのかもしれない。よく考えてみたら、大切かもしれなかったそれらは全て、私に「無用な劣等感や罪悪感」を与えるものが多かった。今でも何かしらの劣等感や罪悪感は私を苦しめるが、もっともっと以前に比べてみれば、全く変わってきた。

 

断捨離の如く手離し続けたら、一体何が手元に残るのだろう。少しだけ怖い。自らの判断力に自信がないから、何を手離していいのか、何を残せばいいのか、よくわからないこともある。

 

生きることは、水の流れの中に漂うようなものだと感じることがある。もしくは、ビリヤードの玉のような。ゆらりと転がってはぶつかり、ついたりはなれたりしていく。ひとところに集まっていることもあれば、ふわっと散り散りになることもある。その中の小さなひとつでしかない私。しかし、私しかいない私。

 

私しかいない私。この世に私はひとりだけ。私は、この世に必要だ。必要とする人がいる。今現在、必要としてくれる人たち。そしてまだ出会っていないけれど、いつか私の言葉を必要とする人たち。その人たちに、かならず届けたいものがあるのだ。それが何かはまだわからない。

 

生まれてから二十年苦しみ、さらに十年に亘って打撃を受け、そして二十年辛酸を舐めた。もうたくさんだ。そう、もうたくさんだ。今の私には怒りのエネルギーが少しずつ溜まっている。もう、たくさんなのだ。私はもう十分に苦しめられた。私を苦しめたのは、誰か。私はよく知っている。だが、もう捨て置け。怒りを向ける価値もない。

 

少しずつ、少しずつ手離していく。大切だったかもしれない、今はもう手離さなければいけないものを。それでいい。

 

最後に残るものが、しっかりと地に足を踏みしめて立っている自分自身であれば、それでいい。