ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

廃墟は再生する

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廃墟が好きだ。廃村や廃屋、廃線。打ち捨てられた何か。役目を途中で停止させられ、適切な処理を施されることもなく、責任を放棄されたもの。その佇まいは仄暗く、どこか悲しく切なく、しかし自ら命を絶つこともできずに生き続けているように見える。かつてたくさんの魂が行き交った場所、捨てられてもいつの日にか残された命がぼんやりと浮かんでいるようだ。だから多くの人が幽霊の出現を求めて廃墟を訪れるのだろう。そこには確かに、何かしらの霊がいて当然だ。行き場をなくした建造物に、行き場をなくした寄る辺のない魂が集まってくる。

 

幼い頃から、廃墟の様子を見ることが好きだった。何が私をこんなにも惹きつけるのだろうか。廃墟に向かって装備しながら打って出ようと思ったことがあるわけでもないし、幽霊に興味があるわけでもない。実際に出かけたことは一度もない。行ってみろと言われたら、やはり怖いと思うのではないだろうか。それなのに、私は何度も廃墟の写真を眺めるのだ。

 

廃墟は美しい。全ての人に捨てられて、全ての人に背かれているのに、物理的に倒れることなくそこに立っている。だが、徐々に倒れている。昨日より今日、今日よりも明日、少しずつ少しずつ倒れ、崩れ、いつかは全て壊れていくのだろう。その過程の一瞬が、美しい。捨てられたものは、自滅していくしかない。自滅という破壊に向かって、ゆっくりと、とてもゆっくりと進んでいく。

 

まるで、私の心のように。

 

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手の施されない廃墟は美しい。けれども、そこに伸びてきた自然の力が、廃墟を変化させていく。人の作った建物が、手入れされないまま植物たちに浸食されていく。その姿は美しさよりもむしろ、違和感を起こさせる。灰色の廃墟が緑に包まれていき、そこに一輪の花が咲く。妙だ。ひどく気持ちが悪い。暗くよどんだ色と空気こそが似合う廃墟に、鮮やかな色合いが出現し、その場は急速に「廃墟」ではなくなっていく。命のなかったものに、命が宿る。なかったはずのものが、なぜ今こうして出てくるのだろうか。

 

まるで、私の心のように。

 

長い時間をかけて破壊され続けた私の心には、一輪の花も似合わなかった。打ち捨てられ、背かれ、自らをも捨てて、薄皮を剥がすように壊れていくことが望まれていたことで、似合うことだった。私には、花は似合わない。生きた花は似合わない。造花すらも。壊れゆくもの、倒れゆくものに花は不要だ。全て死に絶えてから、供える程度にしてほしい。それなのに、花は少しずつ少しずつ増えていき、私の意思に反して生命力を注いでいくのだ。望んでいない。私は望んでいない。このまま倒れていって、打ち捨てられていくことが私の運命だと感じていたから。そう感じていれば、どこか安心だったから。

 

廃墟もまた、再生するのかもしれない。緑の蔦が伸びてきて建物を覆い隠し、飲み込んでいく。青々と茂った植物は命の力に満ち、花を呼び、虫を呼ぶ。増えていく。息を吹き返す。花が咲く。花がこんなにもたくさんになる。廃墟のように壊れゆくはずだった私の心は、いつか青く生命力に溢れ、花に囲まれるようになった。死にゆくものの美しさを、命は凌駕する。いずれ訪れる本当の死のために、不完全な死を鎮めおさめていくのだ。ゆっくりと進む不完全な死は停止ボタンを押され、命の再生ボタンが押される。廃墟だった心は、目を開く。もう一度、生き始める。廃墟の美しさは、一輪の花の美しさに座を譲った。

 

私の心、なのだ。

 

不完全な死を飲み込んで、新しく生きろと花は言う。季節が来れば、花は枯れる。枯れてもまた、春になれば花が開く。人の心もまた、枯れては咲き、咲いては枯れ、生命を巡らせる。夜になれば眠り、朝になれば目覚める。不完全な死の中で眠り続けた心は目覚める。春の朝に。