ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

私に触れてみて

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触ってみると気持ちのいいものは、たくさんある。洗ったばかりの綿のシーツや、シルクのスカーフ、柔らかなガーゼ。ふわふわとしたもの、すべすべとしたもの、つるつるとしたもの、やわらかいもの、ぬるりとしたもの、あたたかいもの、つめたいもの、人の好みによって様々にたくさんある。私の好きな感触は、人の髪の毛の触り心地だ。女の人の長い髪や、男の人のさらりとした短髪や、もちろん自分の髪の毛も。ムースや整髪料をつけていなくて、洗いっぱなしのさらさらの感触が好きだ。とは言え、他人の髪の毛を触ることはめったにないのだが。

 

人間は「気持ちのいいこと」が好きだ。快い状態が好きだ。生きている限り、当然のことだろう。快適な状態よりも不快な状態の方が好ましい人は、あまりいないと思う。他者から見て快適に見えなくても、本人が快適だと思っていればそれが「気持ちのいいこと」なわけだ。赤ちゃんは気持ちが良ければニコニコするし、不快ならば泣きだす。大人になれば泣くことはないけれど、不快ならば顔をしかめたりする。気持ちが良ければふふっと笑ったり、満足そうな顔をする。

 

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少しばかり成長した私が初めて「わあ、気持ちいい」と思ったのは、クラスメイトから髪の毛を触られたときのことだった。確か小学三年生の夏だった。体育の時間にみんなでプールサイドに座って先生の注意を聞いていたとき。私たちが座っていたあたりに落ちていた長めの髪の毛が、いったい誰の髪なのかを測ろうということになった。女の子のうちの誰かがその髪の毛を手に持って、同じような長さの髪の女の子の頭に当てて長さを計測するのだ。おかっぱ頭の私もちょうどその長さと同じくらいだったので、彼女は一本の髪の毛を私の髪にそろっと触れさせた。それがとてもとても気持ちのいい感触だった。「あ、長さが違う、あなたの髪じゃない」と言われたのだが、私はあまりの快さに「そうかなあ、もう一回当てて」と言ってしまったくらいだ。明らかに長さが違ったので、私の願いは採用されなかったのだが、髪の毛にそおっと触れられる感覚がとても気持ちのいいものだという体験は、私の心の中に強く印象付けられた。この体験は私の最初の性的快感だったのかもしれない。とは言え大人になった今は、他人に髪の毛を触られるのはそれほど好きなわけではないところが不思議だ。

 

私にとって、「気持ちのいい音」のようなものがある。それはよく、マンガの中に表現されている。マンガで描かれている擬音で、衣擦れなどを表現する「すっ」(または「スッ」)という音が入ったワンシーン。全てこの音が描かれていれば気持ちがいいわけではないのだが、時折ひどく私の目を惹きつける。若い頃に読んだ高橋留美子の『人魚の森』というマンガのある見開きに、この擬音が多用されているページがあり、私は毎日毎日そのページばかり飽きもせず眺めていた。眺めていると、その「スッ」という音が聞こえてくるような気がして、とても気持ちがよかった。この場合の「気持ちいい」が何を意味するのか、非常に難しい。性的に気持ちがいいわけではないし、いったい何なのだろう。「スッ」の他にも、「さら」、「カラリ」など、いくつか私が気持ちよくなる擬音がある。この感覚器官の官能のようなものは、とても不思議で私にとっては面白い。私はマンガを読むときは、どこかに気持ちのいい擬音は出てこないかなと、いつも無意識に探している。

 

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私は触覚的には過敏な方だが、性的には冷感症に近い。せっかく子どもの頃に髪の毛に触られて気持ちよかった体験があるというのに、大人になったらすっかり何も感じなくなってしまった。性欲はほとんどないし、性交渉に興味もない。年を取ったからというよりも、あまりよろしからずの思い出ばかりなので興味がなくなったのだろう。しかしマンガの中で気持ちのいい音があるとか、髪の毛の感触が気持ちいいとか、全てに冷え切ったわけではないようなので、自分では本当に面白いなあ、と思っている。空想の中で「おお、気持ちがいいなあ」と感じられるのは、誰もがあることなのだろうか。誰かそのような研究をしている学者がいるに違いないと考えているのだが、探すほどのことでもないので放置している。ひたすらに気持ちいい感触を探すことが楽しいのだ。ただし、過敏なだけに不快な感覚を抱くことも多いので、それはいただけない。例えば病院で聴診器を当てられるのは嫌いだ。くすぐったくて気持ちが悪い。また、電車の中で後ろに立たれるのも嫌いだ。ぞわりとして不気味で、震えがくる。歯医者の感触はこの世で最も嫌いなものだ。好きな人はいないだろうが。気持ちのいいものを探そうと過敏さを駆使してみると、不快なものまで拾ってしまうので困ったものだ。

 

この年になったらもう不快な感覚はなるべくおさらばしたいと思っているのだが、生きていると快もあれば不快もあるのは仕方ない。せめて人間関係だけでも、不快なものはおさらばするべきかと考えるようになった。趣味の悪い私はわざわざ不快な人間関係にしがみつくことを常としてきたが、最近ようやくそれが悪趣味なことだと気づいたので、やめようやめようと思っている。不快な人間関係。全く気持ちよくないではないか。嫌いな人に髪の毛を触られるようなものだ。不愉快極まりない。

 

ここまで生きてきたのだ。これからは快い感触だけを追い求めてもいいのではないだろうか。そうしからたって、責められるようなこともないだろう。不快な感触は少しずつ取り除けて、気持ちいい感触で過ごしたい。