ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】終・11 永遠に終わらない冬

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 午前四時三十分。

 もしも家で親が起きていたら、次の機会を考える。けれども親がどちらも眠っていたら、今がチャンスと考える。貴重品や身分証、簡単な着替えを持って、このまま二人で逃げる。家を出ますとの、手紙を残して。
「なんの準備もしてないけどいいのか」
「準備なんかあってもなくても、見つかるときは見つかるわ。だったら今よ、きっと」
 果たして、両親は眠っていた。子どもたちが飲み歩いて深夜まで帰宅しないことなど、珍しいことではなかった。彼らにとって昨夜は運命を左右するような一晩ではなかったのだ。娘と息子にとっては、人生を変える一夜であったのだが。
「寝てるみたい」
「じゃあ、急いで用意しよう」
二人は互いの部屋に入り、身の回りの荷物を簡単にまとめた。銀行の通帳や印鑑、運転免許証や身分証明書、とにかく重要だと思われるものを荷物に入れた。そして、両親に宛てて手紙を書き、印鑑を押す。

 


『二人で家を出ます。お願いだから探さないでください。私たちの意思です。捜索願は出さないでください。いつか必ず帰ってきます。理由はそのときに話します。しばらく二人きりにさせてください。森山結子、森山真実』

 


 手紙を結子のデスクの上に残し、二人はそっと玄関へ向かう。父も母も起きてくる様子はない。
「行くわよ」
真実は結子の囁き声に頷き、静かにドアを開いた。しばらく帰らないであろう実家のドアに、ほんの少しさよならを言う。まだ夜明けは遠く、外は闇に包まれていた。
 家を出て、駅へと向かう。ホテルから家に帰るときはタクシーを使ったが、もう始発は出ている。いくつかの駅を通り過ぎ、家の近くを離れてから、まずは24時間営業のファミリーレストランに入り、これからの相談をした。
「とにかくこのあたりから離れなきゃ。東京へ行かなきゃね。当座のお金は私が結構持ってるから安心して」
「俺、あまり持ってないなあ、バイト代が入る前だ」
「大丈夫よ。仕事は、しばらく休むわ。そのまま辞めてもいいし。別の土地で適当な仕事が見つけられれば」
「訳ありのカップルでも入れる住み込みバイトでもあればな。リゾート地とか、結構あるって友達から聞いたことあるよ」
「とにかく東京でそういう情報を集めてみましょう。ネットで調べればかなり出てくるはずだから」
「ゆい、頼りになるな」
ドリンクバーのジンジャーエールを飲みながら、真実は少し笑った。結子も笑って、コーヒーを飲む。
「実は学生時代に失踪した友達がいるのよ」
「そうなのか。そんな話、初めて聞いたぞ」
「なんだか、言わない方がいいような気がして、今まで秘密にしてたの。しばらく前に、私、東京に出張したでしょ。その子と偶然、渋谷で会ってね、いろんなこと聞いたのよ」
「いろんなこと、ね」
結子はほんの少しだけ、声を低くした。
「退職しておけとか、携帯は解約して新しいのを買えとか、仕事はあんなのやこんなのがあるとか、あと病気と怪我だけは気をつけろとかね。これからは保険証は使えない生活になるかもしれない。このまま見つからなければ」
真実はふとうつむく。このまま、見つからなければ。恐らくそのようなことはないだろう。いずれは見つかる。または、いずれは自分たちから帰宅するだろう。本当のことを、話すために。暴力をふるうとか、経済的に困窮しているとかなど問題のある両親というわけでもなく、ごく普通の家庭なのだ。自分たちもまた、ごく普通の子どもたちだった。ならば、親たちはきっと捜索願を出すだろう。真実はいつのことになるのだろうかとぼんやり感じながら、それでも結子のそばにいて、結子と二人きりでいられることが嬉しかった。
「駆け落ち、だな、これ」
「そうだね」
「不安がないと言ったら嘘になるけど」
「うん」
「でも俺はゆいといたいから」
「私もだよ。だから決めちゃった、もう」
 つい十二時間ほど前、右手の薬指にはまっていた指輪は、今は左手の薬指にある。真実もまた、左手の薬指に指輪をしていた。もうどうせ誰も見ないのだから、見とがめないのだから。
「俺、大学やめる」
真実は指輪を撫でながら言った。
「本当は別に、先生になりたいわけじゃない」
結子は黙って聞いている。
「やりたいことなんて、本当はなかった。ちょっと憧れてただけでさ」
「いいの?」
「うん」
「本当にいいの?」
「それよりも、ゆいのこと、大事にしたいんだよ」
「ありがと、まさみ」
結子の指が、真実の手に絡みつく。誰も見ていないから、できる。二人が似ていないきょうだいだから、できる。
 携帯電話の電源は切ってある。親から電話があっても、わからない。朝になり、結子は上司の自宅に直接電話し、しばらく休むと伝えた。真実は何もせず、そのまま二人は東京へ向かった。

 

 

 朝は、来たかのように、見えた。

 

 

 

 東京に出るよりもはるか前に、二人はあっさりと親に見つかった。昼頃のことだった。
 駅の改札を入る直前に、結子の手首を掴んだのは父親だった。それを離そうとした真実と父がしばらくもみ合いになったが、駅員が来て引き離し、それでも口論になるので、駅の事務室へと連れて行かれた。
「お父さんがなんでこんなとこに」
結子が詰まる声でたずねると、父親は難しい顔をして苦々しく答えた。
「偶然だ。あちこち心当たりを探して、ここを通りがかったら、お前たちが行くところだった」
「偶然?」
「本当に偶然だ」
真実は思わず目を閉じた。これが偶然とは、あまりにも悲しい。一方で父は、安堵した声で呟いている。
「早く見つかって、運がよかった」
運がよかったのか、悪かったのか。結子は泣いている。真実も泣きたかった。せっかく決意して出てきたのに、ほんの数時間しか持たなかった。
「とにかく帰るぞ。お母さんも他のところを探してるから、すぐに連絡して」
「嫌よ、帰りたくない」
「結子!」
父にきつく睨まれ、結子は黙った。真実は、深く追い詰められた気持ちになった。ほんの数時間の自由。ほんの数時間だけの解放。あと一分、いや一秒でもタイミングがずれていれば、今頃は東京行きの特急の中にいたはずなのに。真実は思わず、使えなかった指定席の切符を、破ってスニーカーで踏みつけた。その瞬間の顔を、父親はじっと見ていた。結子もまた泣きはらした顔で、使うことのなかった切符を破って床に落とした。


 家に無理やり連れて帰らされ、二人は父と母からじわじわと問い詰められた。なぜ一晩帰ってこなかったのか、なぜ二人で家出しようとしたのか。もう子どもでもないのに、なぜそんなことをしたのか。
 しかし二人とも、身体の関係を持ったことは、決して言わなかった。言ってしまえば親たちを殺すのだとわかっていた。だから、言わなかった。
「ちょっと、家出って、やってみたくて」
そんなどうしようもない言い訳しか出てこなかった。見つかって連れ戻されることを、二人ともまったく想定していなかった。情けなくなるような言い訳をつぶやきながら、それでも決して本当のことは言わなかった。
「やってみたくて軽くやるようなことか」
「もう、何もかも嫌になったから」
「学校はどうするつもりだったんだ。結子、仕事は」
「辞めればいいと思ってた」
「そんな無責任なこと。何を考えてるの」
 ありきたりな大人の、つまらない説教。結子も真実も、ほとんど口を開かなかった。話してわかることではないし、わかってほしいとも思えなかった。しょせん、わかることではないと感じていた。
 わかるわけが、ないのだ。実の娘と息子が、きょうだいが、愛し合っていることなど。

 

 

 大人しく縮こまって、二人は息を止めて、触れ合うこともなく、両親に監視されながら実家で暮らし続けた。真実が教職を本気で諦め、遠く離れた島の小さな会社へ、就職を決めてくるまで。離ればなれになった姉と弟は、ただ抜け殻みたいになって、ひっそりと連絡を取りながら、若い日を過ごしていた。
 結子も真実も、一緒に死んでしまいたいと思った。親が死ねばいいとも思った。けれども心中する気持ちにはなれなかった。どうすれば自由になれるのか、考えに考えた。考えた結果、長い道のりを選ぶことにしたのだ。

 

 

 二人は、それぞれに結婚した。愛してもいない相手を探した。互いに実家から離れ、親から解放されるまで、十年以上をかけた。結子も真実も偽りの伴侶と離婚するまで、さらに十年近くをかけた。
 二人は徐々に年を取っていった。時間がもったいなかった。もったいないのに、「最後のチャンス」を狙うことしかできなかった。
 両親がこの世からいなくなる、という、最後のチャンスを。

 

 

 

 

 

 

 「私、もうすぐ五十になるよ」
「知ってるよ」
「太ったよね、私。きれいでもないし」
「きれいだよ、相変わらず」
二週間ぶりに会ったカフェで、真実は年に似合わない若さを保つ姉を見つめた。
「五十になるなんて、本当に見えないよ」
「まさみはオジサンっぽくなったよね」
「悪かったな」
あたたかいコーヒーを啜って、真実は窓の外を眺めた。冬の日差しが強く、目が眩む。
 「……やっと死んでくれたね」
「そうだな」
「お父さんもお母さんもほぼ同時に死ぬなんて、ちょっと忙しかったけど」
「どちらかが死ぬと、後を追うように死ぬって、本当のことなんだな」
ほんの数ヶ月前に膵臓癌が見つかった父が死に、そのすぐ後に、看病疲れと心労で急速に衰えた母が死んだ。両親の葬式は出さなかった。そのことを責める口うるさい親戚も存在せず、互いに配偶者のいない姉と弟がいるだけの家で、問題なくすべてを済ませることができた。結子と真実が本当に二人きりになれたときには、お互いに人生の後半にさしかかっていた。
 「まさみ、実家に帰ろう。相続しちゃったんだし」
結子は仕事をしながら頻繁に実家に通い、両親の世話をした。だが真実はその間、一度も親の顔を見ることはなかった。若い頃にきょうだいで駆け落ちしようとしたことを許さなかった両親は、なぜか男である真実に罪があると思い込み、真実を家に入れようとはしなかった。結子はそれを、馬鹿馬鹿しいと心底思っていた。私たちは外でずっと隠れながら会っていたのに、と。そのことを、親が知らなかったはずはなかろうに、と。
「そのつもりだよ。どうせ家の税金も払わなきゃいけないしな」
「早く帰ろうよ、あそこにまた一緒に住もう」
古くなったシルバーの指輪をはめた手が、真実の腕を優しく叩く。年を取っても、結子の指は細いままだ。
「荷物なんかたいしてないから、すぐに帰るよ」
「私もすぐに引っ越すから」
 聴いたこともないような外国語の歌が流れている。最近の若い人の流行は、わからない。二人とも苦笑いして、そんなことを話した。
「わからなくてもいいよね。一緒に、年取ろう」
結子が指輪を撫でながら、言った。

 

 

 もうすぐクリスマスだなと、真実は思う。春も夏も秋も冬も、結子と過ごしてきた。幸せだったときも、離ればなれのときも。その中で、冬だけは特別だった。冬の日差しは、結子を特に美しく見せてくれた。結子に好きだと伝えたのも、結子を初めて抱いたのも、すべて冬のことだった。
 冬は終わらなくていいと、真実は感じた。時が止まらないことは、わかっている。それでも、あの頃のまま、あの夜のまま、冬に閉ざされればよかったと、今でも思う。今でも、結子を愛している。
「ゆい、仕事、冬休みは?」
「二十七日からだけど」
「少しくらい、どこかに旅行にでも行くか」
「それもいいわね」
 離れるくらいなら殺す。邪魔をする奴はみんな殺す。そう思いながら、ずっと生きてきた。親を殺してしまいたいとも思った。殺さなかったのは、結子と真実を出会わせてくれた存在だから。ただ、それだけのことだった。

 

 

 もう、結子と離れることはない。離されるくらいなら、殺せばいい。結子を殺して、自分も死んでしまえば。誰にも、邪魔はさせない。

 


 そんな風に思っていれば、もう何も怖くはない。

 

 

 

(完)