聖書を最初から最後まで読むことを、聖書通読と言います。
私はプロテスタント教会の信徒なので、外典は読んだことがありません。
私は若い頃に、何度かがんばって通読しました。
でも、大人になって長らく聖書を放り出していたのです。
ふと思い立ち、2016年は一年間かけて、久しぶりに通読しました。
上の写真は、その時の通読表です。
「聖書通読」のワードでググったら、便利な表が出てきたので、ダウンロードして使わせていただきました。
どなたが作ってくださった表なのかも知りません。
でも、便利です。ありがとうございます。
2016年はこの通読にがんばったので、今年2017年はお休みしていました。
だけど、少し寂しかったのですね。
やはり聖書は読んでいたい。
だから、2018年は再び通読に挑戦します。
この表を再びダウンロードしてきました。
聖書の読み方は、特に決まった方法はありません。
自分の自由に読んで良いものだと思っています。
しかし、あまりに自由に、かつ勝手に読んでいると、全く読まない部分が出てきてしまいます。
ゼカリヤやマラキ、あまりにも旧約聖書の尻尾すぎて、馴染みがありません。
福音書は読みやすくても、エゼキエルや黙示録はよくわからないかもしれません。
そうして、いつの間にか偏りが出てきます。
これでは、「聖書を読んでいる」ということになるのかな?
だからこそ、通読が大切だと思っています。
聖書は分厚い書物です。
全て読み通すには、少し気合いが必要です。
一年かけて読み通すコツは、「書いてある内容について、いちいち考え過ぎないこと」です。
不思議なこともたくさん書いてあるし、突っ込みたくなることもあります。
だけど、スルーです。
内容を吟味するよりも、まずは読み通すことを優先します。
疑問に毎回向き合っていたら、時間がいくらあっても足りません。
その辺りのことは、専門家である牧師や神学者にお任せしましょう。
(もちろん、とことん向き合いたい人は、ぜひともがんばって向き合ってほしいですね)
まずは、毎日聖書に向かうこと。
よくわからなくても、読み進めること。
聖書と一緒に暮らすこと。
そうやって通読が達成できたら、何が得られるかしら。
それは人によって違うでしょう。
何にもいいことなかったよ!…という人もいるかもしれません。
くたびれ儲けだったかもしれません。
でも、一年間にわたって、あなたは、私は、聖書と向き合いました。
その事実を大切にしたいと思います。
あんなに分厚い、しかも不可解な書物を、がんばって読み通したのです。
結構、自慢していいことです。
私は今度の1月1日から読み始めます。
これを読んでいるあなたも、始めてくれると嬉しいな。
そして一年後、一緒に「読み終わったね」と、達成感に浸って喜びたいものです。
(さあ、これで後戻りできなくなりました。私は必ず2018年の通読をやり抜きます!)