喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
(ローマの信徒への手紙12章15節)
新約聖書の中の、とても有名な一節です。
ここだけ抜き出して取り上げると、感動的。
でも、前後を読むと、意外と厳しいことが書いてあります。
とりあえず今日は、この一節だけのことを。
喜ぶ人と一緒になって喜ぶ。
嫉妬深い人間という生き物にとっては、とても難しいことです。
泣く人と一緒になって泣く。
他者の不幸を喜ぶ人間という生き物にとっては、結構難しいものです。
まあ、そんなことは皆さんがわかってること。
特に私が言わなくても良いことです。
ただ、私はここに、もう一つ付け加えたい。
「怒る人と共に怒りなさい。」
聖書には書いていないけど、私の実感です。
聖書には「怒るな」といった意味の言葉も書かれていますが、人間は怒るものです。
いや、その前に、神様そのものが怒りねたむ神なのです。
神様ですら怒るのに、人間が怒らずにいられるでしょうか。
私には、とても怒っている事柄があります。
その怒りは長いこと継続され、次第に私を蝕み、私自身怒りと同化し、怒りの感覚がもはや麻痺してしまいました。
私の怒りを共有してくれる人はなく、私はひとりぼっちでした。
しかし、そうではなかったのです。
私の怒りを感じ取り、共に怒り、時に私以上に爆発させ、エネルギーに変えて、私に寄り添ってくれる人がたくさんいることに気付きました。
私はもはや孤独ではなく、共に闘ってくれる人々が、周囲に備えられていました。
生きるって、きれいごとじゃない。
怒りも憎しみも、みんな抱えています。
だから聖書にも、多くの憎悪や嫌悪、悲嘆が描かれています。
怒りで苦しむ人にとっての慰めは、共に怒り嘆いてくれることなのです。
その段階を通り越して、慰めすら感じ取れない場合もあります。
それでも、共に怒り、手を取って「私もそう思うよ」と言ってほしいことがあるのです。
喜ぶ私と共に喜び、泣く私と共に泣き、怒り狂う私と共に怒ってほしい。
それを本当にしてくれる人は、きっとイエス様でしょう。
でも、イエス様を感じるよりも前に。
人間であるあなたに、共感、共有してほしい。
もしもあなたの近くに、怒りに燃える人がいたら、一緒に怒ってほしい。
それがどんなにか慰めになるだろう。
根本的な解決がもしもなくても、その怒りを共有してもらえるだけで、どれほどの安らぎがあるかと思うのです。
いつかその怒りは時間をかけて鎮められ、ゆっくりと穏やかな波へと変わっていくでしょう。
怒るあなたは、間違っていない。
私もあなたと共に怒り、嘆きます。
あなたと、一緒にいます。
あなたが、私と一緒ににいてくれることを、心に感じています。