ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【万年筆短編】誕生日の奇跡

  誕生日でも、バレンタインデーでもない。何の記念日でもない。記念日を祝う間柄でもない。そもそも、誕生日がいつなのか、それも知らない。

  それでも私は、あの人にプレゼントを渡したかった。

  スーツの胸の、内ポケットにさしてあるペン。先っぽには、あまり目立たない鳥のマーク。そのブランドが好きなのか、自ら買い求めたのか、誰かからもらったのか、それもわからない。けれども、常に身につけているということは、嫌いなブランドのはずはないと思った。

  私はそのメーカーを一生懸命に調べて、デパートの高級文具売場でようやく見つけることができた。数々の商品を眺めて、その価格の高さに驚きを隠せなかった。

「どうしよう…意外と高い」

だけど。プレゼントしたい。その気持ちの方が、強かった。

 


  だって、好きなのだもの。

 


  私はもう数年もの間、同じ人に恋をしていた。同じ職場の先輩。一歳だけ、年上の。彼にお付き合いしている相手がいるかどうかも知らない。結婚をしていないことは知っている。

  なら、少しくらいチャンスがあるかもしれない。彼に振り向いてもらえる機会があるのかも。

 


  だって、とても好きなのだもの。

 


  彼のどこが好きなのか、私にはよくわかっていなかった。ただ、たたずまいが好きだった。物静かで、上品で。出過ぎたところがなくて、穏やかで。優しい空気が歩いているような、あたたかい存在。

 


  あなたが、好き。

 


  彼のことを思い浮かべると、心の奥がぎゅっと鷲掴みされる心持ちがして、鼓動が速くなり、ため息が出る。

  仕事をしている間はあまり意識していなくても、ふとした瞬間に彼を意識して、なぜか涙ぐむことまである。すぐにごまかせる程度のものだけれど。

  いつも私は彼をそっと見ていた。だから、胸の内側のポケットに入っているペンが、万年筆であることを知っている。普段はスーツの外側の胸ポケットにさしてあるボールペンをさらさらと使っているが、時折、胸の奥から万年筆を取り出して使う。

 


  あなたの、胸の中。

 


  彼の胸であたためられていた万年筆。彼の体温をいつも感じていられるペン。取り出して手に持った万年筆はほんのりとあたたかいのだろうなと、私は彼の指先を見つめる。

  そのペンが、私からのプレゼントだったら良かったのに。

  私の選んだ万年筆を、そっと取り出して、静かに文字を書く。流れ出す、紺色のインク。にじみ出る、私の気持ち。

 


  ねえ、もしも私がこの思いを告げたら。

 


  考えるのが、怖かった。職場の同僚。近くて、遠い。友達になれそうで、なれない。ただの、仕事仲間。恋なんか、成立しない。そんな気がしてくる。

 


  もし駄目なら、この仕事、辞めてもいい。

 


  私はデパートの万年筆売場で、緑のストライプの万年筆を買った。

  彼に、気持ちを伝えよう。だって、好きなのだもの。ずっと見ていた。誰よりも、あなたを見ていた。もしも拒否されたら、潔く転職してしまえばいい。もう二度と会わなければいい。

 


  あなたが好きだから、中途半端はいや。

 


  勇気を振り絞って、仕事の帰り道、彼をお茶に誘った。何を話したのか、覚えていない。彼を前にして、私は何をしていたのか。

  お茶するなんて、久しぶりですね。たまにはどうかなと思って。この前の会議で居眠りしてたでしょ。私、偶然見ちゃった。他愛もない会話。囁くような笑い声。ねえ、誕生日はいつなんですか?

 


「実は、今日なんだ」

 


  大事なお誕生日に、お茶に誘ってしまってごめんなさい。おめでとうございます。彼女とデートの約束があるんじゃないのかな。

 


「彼女はいないよ、今は」

 


  それなら私、立候補、なんてことはうまく言えなかった。ただ私は、かすかに震える手で、プレゼントを彼に差し出した。

 


ペリカンの万年筆じゃないか」

 


  そうなんです、探して買ったの。あなたに使ってほしくて。

 


「今日が誕生日だって、知ってたの?」

 


  ううん、知らなかった。本当に偶然。ラッキーなのかもね。

 


「ありがとう…嬉しいよ。すごく」

 


  受け取ってくれるのかな。使ってくれるかな。

 


「すてきなプレゼントもらったら、嬉しくて腹減っちゃったよ。晩飯でもどう?」

 


  受け取ってもらえて、ディナーを一緒にして。何を話したのか、これまたよく覚えていない。彼の静かな所作が、いつもよりさらに美しいと感じた。伏せたまつ毛が、思ったよりも長いことを知った。

  万年筆がどうして好きかも聞いた。ペリカンが一番好きだ、とも。緑のストライプは持っていないので嬉しかった、とも。

 


「プレゼントをもらっちゃったからこんなこと言うわけじゃないんだけど」

 


  赤ワインに口をつけて、彼は低い声で呟いた。

 


「君さえ良ければ、俺と付き合ってほしい」

 


  私は、驚いた。なぜ急にそんなことを言われるのか、わからなかった。

 


「前からずっと言おうと思ってた」

 


  グラスを倒しそうになるのを、すんでのところで押さえる。

  私は、心で考えもせず、ふと感じたことをそのまま言葉にした。

 


「胸の内ポケットにある万年筆、貸して」

 


  彼はきょとんとして、万年筆を取って、私に差し出した。

 


  あたたかい、彼のぬくもり。

 


  涙が出てくる。あとから、あとから。万年筆に涙のしずくが落ちないように、ナフキンで目を拭った。

 


「俺じゃ、だめ?」

「ううん、だめじゃない」

 


  私は、泣きながら「ありがとう、ありがとう」と言い続けた。彼は優しく微笑んだまま、ずっと私を見ていた。

  そっと手が伸びてきて、私の指先を包んでくれる。とても、あたたかい。

 


「万年筆のプレゼント、ありがとう。でも、君がここに一緒にいてくれることが、もっともっと嬉しい」

 


  彼の優しい空気が、さらに優しくなる。私の心も、優しくなる。

 

 

 

  あなたが、好き。大好き。

 


  この奇跡、決して、忘れない。

 

 

 

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