あなたが死にたかった一日は、
誰かが生きたかった一日。
とかいう名言?を時折ネットで見かけていて、
「ホントこういうの鬱で苦しむ人に突き付けるのやめてほしいの」
って長らく思っていました。
先ほど出典をググったら、Yahoo!知恵袋に答えが落ちてました。
正しい台詞は、
「あなたが虚しく過ごした今日という日は、きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした」
だそうで、書いてある本は、
『カシコギ』
(趙昌仁著、2002年、サンマーク出版)
なのだそうです。
韓国のベストセラー小説らしい。
映像化もされたらしい。
読んでも見てもいないので、中身はわかりません。
ストーリーもこの台詞の脈絡も知らないので、感想を述べるだけの資格もありません。
だから、このお話と正しい台詞については、別にいいんです。
(興味が出たので、そのうち読む)
問題は、この言葉だけを都合良く取り上げて、希死念慮に苦しむメンタルの病気の患者を苦しめる、漠然とした雰囲気。
いや、この言葉は素晴らしいと思います。
文句なく名言として残っていくものだろう。
しかし、これを適当に持ってきて、他者に投げ付ける奴。
それ、頼むからやめて。
私も希死念慮に苦しむ患者だし、実際に自殺企図もしました。
しかしこんな私を、家族も、主治医も、セラピストも、親しい友人も、決して責めたりはしなかった。
専門家や本当にわかってくれる人は、「あなたが死にたかった一日はぁ」とか言って、患者を責めたりしない。
「帰ってきてくれて良かった」「もう置いて行かないでね」と、本気で泣いてくれて、私は感謝の言葉もなかったです。
この希死念慮が「深刻な症状の一つ」であることをわかっていて、患者本人が一番苦しんでいることを尊重してくれるからなのでしょう。
自らの意思とは関係なく出てくる、「死んでしまいたい」という謎の感覚。
どこの誰をも幸せにしない、嫌な気持ち。
なんでこんなことを思わなければならないのか、自分でも皆目見当がつかない。
せめて、『カシコギ』の台詞そのままに、正しく伝えてくれればいいのに。
そうすれば、嫌がらせにはならないのに。
私が死にたくて死にたくて耐えられないほどに苦しんだ一日は、どこかの誰かと同じように私もまた生きたくて生きたくて苦しんでいた一日なのです。
勘違いしないで。命を粗末にしているわけではない。
ただ、襲ってくるのです。
自らの存在を否定する感覚が。
それをコントロールすることは、患者本人にはできない。
だから、医者に行き、薬を飲んで、休んで。
こうして少しずつ、回復する。
何年も、何十年もかけて。
懸命に生きているのです。
懸命に、生きているのです。