ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

やさしさってなんだろう

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学生時代、社会学か何かの講義で「自己アピール」をする機会があり、

「私はやさしいと思います!」

と言ったことを思い出します。

 

自分で自分のことを「やさしい」って、何よ。

そもそもやさしいって、やさしさって、どんなものだろうか。

そんなこともろくに考えずに、単なる「人当たりの良さ」をイメージして言ったような気がします。

 

人当たりの良さは一見やさしさと混同されがちですが、これは明らかにやさしさではありません。

単にいつもニコニコしているだけ、というのも、やさしさとは異なると思います。

大事なことではありますが。

 

やさしさってなんだろうなあ。

考えていると、ある友人ふたりのことが浮かんできます。

とても仲の良い人たちなのですが、この人たちが素晴らしいのです。

どんなところが、というと。

 

1.私に極端に近付き過ぎない

2.黙って静かに観察してくれている

3.私の体調が悪くてもむやみに声をかけない

4.本当に具合が悪いときに手を差し伸べる

5.過度に依存させない(1と関連)

6.絶対見捨てないよ、と私に感じさせる

 

なんとなく箇条書きにしてみました。

こうして見てみると彼らの優れたところは、

・極端に依存し合わない絶妙な距離感

・見捨てないという大きな信頼感

にあると思います。

 

依存という事柄はとても難しいので、考えていくとだんだんわからなくなりますが、ネットでのやり取りを想像するとわりとわかりやすいです。

 

例えばFacebookで「具合が悪い!」と投稿したとします。

彼らはすぐにはコメントしません。といいますが、普段はあまりコメントがないのです。

でも、コメントをしなくても、私の様子をさりげなく観察してくれていることが感じ取れます。

もちろん忙しくて見ていない投稿もあるでしょうが、ポイントをきちんと見定めている感触があるのです。

具合が悪いときに「すぐ」に心配のコメントを寄せてくれる人たちにも本当に感謝感謝なのですが、この「じっと黙って様子を見ている」のは、何とも言えないありがたいものなのです。

そして、体調がどんどん悪くなってきて、それこそ「危機的」な状態になると、コメントまたはメッセージが来ます。

離れていても、あなたを危機から守るよ。

そんな気持ちが伝わってくるのです。

私はだんだんと落ち着いてきて、その時間を乗り越えたり、眠ったりすることができるのです。

 

そこには、極端な依存はありません。

すぐにコメントをくれて、コメントの応酬になると、依存が生まれる気がします。

その依存が必要なことも、もちろんたくさんあります!

しかし彼らはじっと黙って観察して、本当の本当に危機的状況かどうかを(限界はあるでしょうが)見極めようとしてくれているようなのです。

依存ではなく、そうではなく、私は「この人たちがいるから、大丈夫。私はこの世から見捨てられない」と感じ取ることが、日常の中でとても多いのです。

一年のうちに一度か二度か会えれば上等というくらい、滅多に会えないのですが。

 

なんというのでしょうか。

これって、「やさしさ」だと思います。

それもかなり高度な技術の。

「やさしさ」が「技術」であるかどうかは議論のあるところかもしれませんが、私には彼らのやさしさは単なる感情的な状態を超えた、一つの高度なテクニックとしての「やさしさ」と感じられるのです。

つまり、そう簡単に身につくものではない。

苦難の人生を歩んでくる中で、破れかぶれになりながら、然るべく身につけていったもの。

ただの「人当たりの良さ」でも「感じの良さ」でもない。

苦しむ人の受け皿となれるような、そんな技術に思えます。

本人に言ったら、あり得ないと笑われそうですが、本人にはその自覚はないはずです。

 

やさしさってなんだろう。

それは、「ふさわしい距離感」と「絶大な信頼感」、「器の大きさ」が根拠になると思います。

だからこそ、一朝一夕には身につくものではないですし、表すことができるものでもないでしょう。

一見した感じの良さに人は吸い寄せられますが、それだけで「やさしさ」は測れない。

これは人だけではなく、団体にも言えることだと思います。

「やさしい福祉施設」なんて表現はあまりないけれど、その根拠に距離感や信頼感があるかどうかは大事なことですよね。

 

病気の人、特に私みたいなメンタルの病気の人には、「適切なやさしさ」が必要です。

まさにこの適切なやさしさを持っている人が近くにいることこそ、感謝すべきことなのだろうなと、日々感じているのです。