ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

自分探しの旅

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よく聞く言葉です。自分探し。

私はしたことありません。

自分を探している暇はなく。

自分の病気の世話を焼くばかり。

 

しかし、40を少し過ぎた頃、気付いた。

 

私、「自分」がない……

 

 

私には、「私」や「自分」がありません。

常に誰かや何かに巻き込まれてばかり。

これを認めることは、嫌だった。

とてもつらいことでした。

だけど、認めざるを得なかったのです。

 

私がどこにもいなければ、病気も治らない。

 

なぜ自分がこういう人間に育ったのかは、まだよくわかりません。

ただ、軸がない。芯もない。誇りもない。

とても情けない。

 

人生五十年になりそうな年齢ですが、今からでも探すしかないのです。

いなくなった自分探しの旅をするしかない。

いなくなったというか、いつの間にか隠れてしまったというか。

自分でも情けなくて歯がゆいのです。

 

ときどき「自分探し」を批判する人もいます。

今いる自分が自分だから、探す必要ないって。

いやいやいや。そうじゃない。

今いる自分の中にきちんと自分がおさまっていないから、探し出すのは急務なのです。

自分が、自我がはっきりしてる人にはわからないかもしれないけれど。

 

顔がみーんな違うように、育ち方や人としての成り立ちもみーんな違います。

だから、自分探しが必要な人といらない人がいるのでしょう。

自分探しというか、「他のものに振り回されないでしっかり自らの足で立つ私」を探し出して育てないといけない。

育てるのが大事なのです。育ってない。

どれを育てていいかわからない。

育てる「私」がいないから。

 

 

がんばろう。