ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

自己肯定感とキリスト教と当事者研究と

おはようございます。

さて。

 

皆さんは、自己肯定感は高いほうですか?

 

どこかの自己啓発系ブログみたい!!

 

違います違います。

 

この二日くらい真剣に考えているのです。

クリスチャンのくせに自己肯定感が極端に低い私自身のことを。

 

自己肯定感とキリスト教とかクリスチャンとか、そのあたりのキーワードでテキトーにググってみたりすると、見事なことに「クリスチャンは自己肯定感が高い!」とか、「自己肯定感の低いクリスチャンもいます、でもそんなあなたを神様は愛しています」とか、「イエス様はありのままのあなたを愛してくださいます」とか、ざっくざっくとブログが発掘できます、ええ。

 

ふざけんなよー。

 

よく聖書を読みましょうよ!!

人間は罪にまみれてるんですよ!!

アダムとエバが知恵の木の実を食べちゃってエデンの園から追い出されたときに、自己肯定感が高かったと思いますか!?

思いっきり自責満載だったと思いますよ。

 

確かにね、聖書には書いてあります。

神は愛なり。

エス様は我々を愛してますよ。

十字架にかかってくださるほどにね!

 

でもそれって、神様側の都合だろ?

神様が愛していると発信していても、受信側の都合ってもんがあります。

どんなにイエス様が十字架にかかって三日後によみがえったとしても、それと私の問題とはちょっと違う。

いや、違わない。違わない違わない。

でも違うのですよ。

 

私の人生の苦しみや悩みや、自己肯定感が著しく落ちる原因となった事件、そういうものの回復には、神様がお手軽に手術でメスを入れてくれるわけではないんです(遠回しに手術してるはずなんだけど、即効性はないの、それがキリスト教ってやつなの、なんたってご利益宗教じゃないから、何したってイイコトが起こるわけじゃないの)。

信仰以前に、きちんとした精神科やサイコセラピー、カウンセリングなどの治療が必須でしょ。

誰が考えてもわかるよね?

教会行けばこの苦しみが救われるわけじゃないのよ!!

だから、「神様はありのままのあなたを愛してくださっています♪」とか言われても、「はあ?」って感じなのですよね。

私は洗礼を受けて今年で34年くらいになりますが、思いっきり「はあ?」って間の抜けた声を出しますよ。

キリストは信じているつもりですが、それだけで自己肯定感がそこそこ上がるなんて、調子よく考えたことはありません。

 

だいたい、自己肯定感がそんなに高そうな信徒も牧師もいませんぜ……教会には……

まあみんなして「俺たち罪びと!」って考えているわけだから、当然かもしれませんけど。

そして私もその一人だ。

 

そりゃ中には立派な信徒や牧師がいます。

思いっきり信仰的で、なんというか身をゆだねているというか。

そういう人はいいんです、好きにすればいいんです。

私が言いたいのは、クリスチャンであることと自己肯定感の高さは必ずしも比例しないってことですね。

 

でも、せっかくだから少しは自己肯定感を上げたいじゃないですか。

低いとろくなことがないって、人生五十年近く生きてきてしみじみ思い知りましたし。

 

そのあたり、当事者研究で追究したいです。

したいというか、しなければならない。

これは私の重要な使命だと感じました、勝手に。

 

生まれる前から教会に通っているはずなのに、「いい子ねえ」と言われながら育ったはずなのに、どうして私は無能のような気がするのか。

 

信仰の神秘(なんといっても信仰は神秘です。そこは譲ることはできませんが)という部分ではとても難しい問題なのですが、人間の心理的な動きとして考えることは絶対に有効だと思います。

 

 こんな私は教会を休み始めてもう十年以上かもしれない。

教会が少し遠いので、いつもお休みしています。ごめん。

そのうち行けるようになると思うのですが、こりゃ多分、この研究で一定の成果が出てから……って感じかもしれない。

 

教会に行けるようになるためにも、研究をがんばります。

 

 

では、今日も一日お元気で!!