ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

認知の歪み

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心理学用語として誰もがしょっちゅう聞くであろうこの言葉は、今の私にとって緊急課題となっているものです。

 

認知の歪み、それは。

 

「本来の私」とは著しく異なった自己認識を持っている状態のことですね。適当に言うと。

 

例えば私は今、横になりながらスマホでこの文章を打ち込んでいます。一見怠惰に感じられる姿勢ですが、只今の私にはこの姿勢をするきちんとした理由があるのです。あの、「疲れているから」という理由だけですが。

疲れているから横になる。人としてそんなにおかしな行動ではない。しかし。

 

私はこれを「怠けている」と認識する。

 

怠けていて怠けていて、人間として最低で、この世の全ての人に謝罪しなければならないと勝手に思い込んでいたりします。

誰も私のことを責めてはいないのですが。いや、本当に。本当です。

 

それでも怠けていて怠けていて怠けていて情けない。もう人として最低。ろくでなし。こんな奴だから私はもっと罰せられるべき。もう死んだほうがましかもしれない。横になってスマホやるような怠け者はいないほうがいいと思います。

 

……これが、ザ・認知の歪み。

 

疲れているなら横になったほうがいいと思うのですが、私の論法だと「疲れて横になるくらいなら死んだほうがまし」という妙な極論になるという不思議な現象が起こってしまいます。

 

私にはこのような極端な認知の歪みが、いくつか内在しています。

これを正しい認識にしてやらなければ、私という人間はとてもとても不自由な生きかたをしなければならなくなります。いや、今まさに不自由なのです。不自由なまま、年をとって死んでいくのか。それはいけない。簡単に考えても損します。

 

認知の歪みを正すために、私は当事者研究という方法を用いて、セラピストさんのもとで少しずつ少しずつ修正を試みているのですが、これがなかなかうまくいきません。

長年にわたって心身に染み付いた認知の歪みは、そう簡単には抜けていかないのですね。

そもそもいつから歪んでいたのかすらわからない。認知が歪む以前の自己理解、自己認識はぼんやりとしています。これは仕方のないことかもしれません。認知が歪む病気(複雑性PTSD)なのですから。

 

この一ヶ月間、当事者研究レポートをコツコツと書き続けました。文字数だけならば、6万字くらいは書きました。

しかしそれで認知の歪みが完全になくなったかと言えば、果たしていかがなものか。

かなり修正された部分もあります。が、少し油断すると修正前のクセが出ます。疲れた〜、と認識して横になり始めても、どんどん自己嫌悪が滲み出てくるのです。そしていつの間にやら死んだほうがましな私のできあがりです。

20年以上にわたって刻み付けられた残念なクセは、ちょっとやそっとの当事者研究ではサヨナラしてくれないようです。

 

私の人生は私だけのもの。だから、認知の歪みもまた私のものです。認知の歪みを修正していく道は、まさにけものみち。誰も歩いたことのない山道をヒィヒィ言いながら手探りで進んでいくことに似ています。もちろんセラピストさんが同伴して導いてくださいますが、認知の歪みを修正していくのは私自身なのです。この先もしばらくは、けものみちを歩いて行かなければなりません。

 

けれども、実は。

 

今はとても、楽しい!

認知の歪みが修正されるかもしれない自分自身を感じるのが、とっても楽しみなのです。その向こうには、もしかしたら自分の知らない自分がいるかもしれません。本当はもっと自由だった私がそこにいるのかもしれません。自由な自分に会ってみたいではないですか。

だから、楽しい。

 

認知とやらが歪んでいるから、私って面白い。

 

今はそんな感じで、当事者研究をぽそぽそとやっています。

 

 

もう怖くないぞ、認知の歪みめ。