ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

あなたはあなたでいればいい

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私が私であるということは、誰に疑われることもない。この文章を紡いでいる人間はたった今、私しかいない。今これと全く同じ文章を書いている人は、ここにしかいない。当然のことなのに、時々わからなくなる。私と同じ人がこの世のどこかにいるかもしれない、などということではなくて、私しかいない私にはいかなる価値があるのだろうかということなのだ。

 

私はとても平凡な存在だ。どこにでもいるような中年の女性で、なんの取り柄も秀でたところもなくて、有名になるような要素もない。はいて捨てるようなとは言いすぎだが、街の中の群衆に紛れればどこの誰かもわからない。学業優秀だったわけでもなければ、仕事で驚くような成果を出したこともない。目立ったスキルや資格も持っていない。この仕事は彼女でなければできないねというものもない。卑下しているわけではなく、ただの現実なのだ。そんなものに価値を置くことなど別に必要もないのだが、それにしても「何もなさすぎる」と首をかしげる日がある。例えば、この本は私が書いたのとか、この歌は私が作曲したのとか、明確な作品が手元にあれば自分自身を説明しやすくなるかもしれない。ああ、作家なのね。ああ、作曲家なのね。このボールペンは私が開発したのとか、このキャラクター原案は私が担当したの、とか。急にわかりやすくはなるだろう。私にはそのような成果物がないのだ。せいぜい毎日の日記に書いている自分のキャラクター「ヒト」くらいのものだろう。有名でもなんでもなく、ただ好きで書いているだけの。またはこのブログくらいだろうか。いったい一日に何名の人が読んでくださっているのかもわからないレベルの、とてもとても小さなブログ。この世にブログを書く人など無数にいるのに。

 

人間の価値は、どこから出てくるのだろうか。何かを物すれば価値は上がるのか。テレビに出てくる俳優などを見ていればわかりやすいが、この役はこの人でなければと思われる場合がある。しかし彼らだっていつでも誰かに取って代わられる不安定な価値の上に立っているのかもしれない。一世を風靡した名アーティストであっても、いつかはより若くより才能のある人に座を奪われる。果たして、価値は誰が決めるのだろうか。他者の評価によって決められるのか。作ったものを評価されることでしか価値が決められないのならば、何も作り出せない人はどうなるだろうか。

 

違う。この考え方には、著しい誤りがある。

 

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「あなたと友達になった人たちは、なぜあなたと友達になったのだと思う?」という意味のことを、たずねられたことがある。私は最後まで答えることができなかった。なぜならば、自らの「外から見た価値」を一生懸命探していたからだ。どうして友達になってくれたのか。私がかわいいからか、私が魅力的だからか、それとも友達になると得をするからか。いずれも何かがおかしい。私をかわいいと思うかどうかはその人の見方次第で変わるし、魅力があるかどうかも人によって様々な見方があるだろう。損得勘定で友達になるとしたら、それはずいぶんと嫌なものだ。いくら自分で何かに自信があっても、他者がどう見るかで全く変わってしまう。だから、なぜ私と友達になったのかなんて、私にはわからなかった。この考え方、何かがおかしいと、思わないか。

 

何がおかしいか。ここには、私がいないのだ。

 

なぜ友達になってくれたのかと考えていたある日、私は天啓のようにふと気づいた。「それは私が私だからに決まっているじゃないか」と。私がナントカだからとか、私にナントカができるからだとか、そんなものを見ている友は恐らく一人もいない。立場を逆にしたら簡単なことだ。私が大好きなあの女の子。どうして友人同士になったのか。彼女が私をどう見ているかはともかくとして、私にとって彼女はとても大事な人だ。どうしてか。それは、彼女が彼女一人しかいない彼女だからだ。あの子があの子だから、私はあの子が好きだ。ありのままの彼女が好きだ。ありのままの彼女をきちんと見ることができているかどうかは別として、私の目に映る限りのありのままの彼女が好きなのだ。何もできなくていい。そのままでいい。有能な人であることはわかっているが、それは二次的なものだ。そういうものが何もなかったとしても、私は彼女を愛していただろう。彼女が、彼女だからだ。あなたが、あなたであるからだ。あなただから、好きなのだ。

 

人間の価値は、作り出したものだけで決まるわけではない。努力の末に作り出したものが高い評価を得るのは当然のことだが、自分自身の存在の価値を決めるのは、その点ではない。私が私だから、私という存在には価値がある。生まれたばかりの赤ちゃんは、何一つ作り出すことはできない。それでもその存在に、多くの人が喜ぶ。そこにいるだけで、生きていてくれるだけで、途方もない喜びを生み出す。大人になった私たちであっても、同じことなのではないか。その存在を喜び、希望を見出し、そこにいてくれるだけで嬉しくなる。何もできなくても、何も作り出せなくても、あなたには価値がある。なぜなら、あなたがあなただからだ。そう、何もできなくていいのだ。構わない。何もできないことを理由にあなたを罵るような人がいれば、あなたの方から捨ててやれ。あなたはあなたの存在そのものを喜んでくれる人と共にいるべきだ。そしてその相手は、時代によって動いていく。付き合う人が変わっていくように、ゆるやかに変化していく。それを気にせずに、あなたはあなたのままでいればいい。何も心配する必要はない。

 

あなたは、あなたでいればいい。私もまた、私のままで。