ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

花の名前を知らない女の子

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女の子のくせに、花の名前を知らない。

 

母からよく言われていたことだ。「くせに」とまでは言われなかったかもしれないが、「女の子なのに花の名前を覚えないわねえ」程度には、数えきれないほど言われてきた。

 

本当に、植物には興味がない。花の名前は有名なものしか覚えられない。ソメイヨシノとか、アジサイとか、ヒマワリとか、そんなレベル。自分でもなぜかと思う。何度聞いても、覚えることができないのだ。花はかわいいなとは思えるのに。

 

一時期、がんばって道端の花を写真に撮り、家に帰っては母に名前を聞いていた。いくつかは覚えたが、もう忘れたものがほとんどだ。記憶が長続きしない。なぜだ。母は、どこか不満そうだ。彼女は花に詳しい。他者とあまり関わりたくない母にとっては、昔から花が友達だったからのようだ。

 

女の子だからって、花に詳しくない人だっている。男の子のくせに、花に詳しい人もいる。こんなことに男も女もない。要するに、個人差だろう?

 

けれども、「花の名前を覚えないわねえ」という言葉は、大人になっても私の胸に突き刺さる。覚えられなくて、何が悪い。私は植物には興味がないのだ。花はきれいでかわいいが、育てたいとも思わない。家にあればきれいだけれど、私ひとりしかいなければ、あっという間に枯らしてしまうだろう。育てかたなんか、わからないし興味もない。

 

もちろん、花に詳しい人はすごいなと思うのだ。豊かな感じがする。これは裏返せば、花に詳しくない人は貧しい感じがする、という意味になるのだけれど。何か、違和感を覚える。なんとも言えない何か。一芸に秀でる人のほうが、そうではない人よりも優位であるような、そんな何か。いや、一芸に秀でる人は素晴らしい。それは文句なし。しかし、この世の誰もが一芸に秀でているわけではない。これといった趣味も特技もない人だっているのだ。

 

有り体に言えば、まあ、私のことなのだが。

 

花に詳しい八十代半ばの母が、「女の子のくせに花の名前も覚えないなんて」と思ってしまうことは、致し方あるまい。いわゆる昔の人だ。女の子なんだから花の名前くらいと、娘に願っても仕方ない。問題は、そこで私が長年にわたり、劣等感を抱いてきたことかもしれない。女かどうかはともかくとして、花の名前が覚えられないなんて、どこかに欠陥があるのではないだろうかと。そんなはずはないのだが。花の名前に詳しい人も、詳しくない人もいて、それが世の中なのだけれど。

 

たまに、母を責めてしまうことがある。花の名前が覚えられないこと、うるさく言わないでよ。しかし母は言う。「なんで怒るの。事実を言ってるだけなのに」と。確かに、事実だ。怒るのは、図星だからだ。花の名前が覚えられないことを責めているのは、私自身だった。

 

事実だからといって言い続ければ、それは誰のものかもわからない悪意に感じられることもある。知らずに溜まっていった謎の悪意は、私を少しずつ突き刺して、「花の名前を知らない駄目な子ども」の妄想ができあがる。私の中にぽつんと立ちつくす妄想の子どもは、誰にも助けられることもなく、私が花を眺めるたびに責められ続ける。花を見るたびに、責め立てられる。なんと、不憫な。

 

女の子のくせに、花の名前も知らないなんて。

 

何が悪いのか、花の名前を知らなくて。

 

花の名前を覚えようともしないなんて。

 

何か不都合があるのか、興味がなくて。

 

もう、やめてやれ。無意味だ、それは。もう、自由にしてやれ。その子どもは、罪を犯したわけじゃない。ただ、知らなかっただけの。ただ、適性がなかっただけの。ただ、ありのままの。私だったのだから。

 

花の名前を知らない人よ。私もまた、知らない。それは責められるべきことじゃない。ただ、それだけの。ただ、そういう人だっただけの。

 

何も、悪くない。

 

大丈夫、悪くない。

 

知らなくて、構わない。

 

誰も、傷つかない。

 

 


あなたがあなたを傷つけなければ、大丈夫。