ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【BL】(1)月のかたちと二人のかたち

f:id:hammerklavier:20190603084602j:image

 

(pixivより転載。昔書いたBL小説。全7話)

(BLとはボーイズラブ。苦手な人は以下略)

 

-----

 

 今年の中秋の明月は、いつもより真ん丸らしい。この真ん丸が今度見られるのは、8年後くらい後になるらしい。そんなにありがたい真ん丸ならばもっと目をこらして見た方がいいかと思ったが、あいにく俺は目が悪い。真ん丸の月は見えるが、その左右にも重なって月が見える。つまり月が三つ重なって見える。メガネは二つ持っているが、どちらも大した違いはない。
「メガネ、こんなことで買い換えるのもな」
二つのメガネを両手に持って、ぶらぶらと揺らしてみる。昔は視力に自信があった。今は視力が悪いことに関しては絶対的な自信がある。全くもって自慢にならない。メガネもコンタクトも結構値段が張るし、結構なハンディだなとしみじみ思う。子どもの頃の視力のままなら、何も道具はいらないのにと残念に感じる。
 俺は特に天体観測の趣味は持っていない。今、中秋の明月を見上げているのも、単なる偶然だ。テレビでニュースを見ていたら、中秋の明月が毎年必ずしも満月ではないということを言っていたので、意外と珍しいものなのかと空を仰いでみただけだった。今日は仕事も定時で終わり、特に何もすることもないから、自宅でのんびりと食事をしていたところだった。食事と言っても面倒なのでコンビニの弁当だが。男の一人暮らしはこれかだらいけない。もっとまめに自炊してまともな食事をしないと、そのうち身体を壊してしまうかもしれない。が、俺はまだせいぜい三十年弱しか人生を送っていないから、まだコンビニ弁当でも心配しなくてもいいと思う。
 月を一緒に眺める家族もいない。家族はいるが、大学入学と同時に実家を出て東京へ来てしまったから、もう十年近く一人暮らしだ。そしてもっと残念なことに、俺には付き合っている彼女もいない。以前はいたが、別れた。いや、ふられた。もう4年くらい経つので、彼女いない歴も長い。彼女いない歴、という言葉自体がなんとなく古い気がする。以前から言葉の選びかたがどことなく昭和くさいと言われていた。それのどこが悪いのかと思うが、いけないのだろうか。
「散歩にでも行くか」
小さなアパートの一室で閉じ込められながら月を眺めるのも窮屈に感じて、俺は近所を散歩するために玄関に向かった。靴をはきながら、この週末はさぼっていた掃除機かけをしようと思い付く。掃除は嫌いではないが面倒だった。

 外へ出てみると、昼間の陽射しがない分涼しくて、すっかり秋らしい空気が漂っていた。仕事が早く終わって良かった。俺は夜に散歩をする趣味もなかったが、気候が良ければ気持ちのいいものだと思った。しかし散歩と言っても、どうしても行きたい場所も思い当たらない。どこへ行こうか。月がよく見える場所はどこだ。
 俺は真っ白に光る満月を追いかけて、ふらふらと歩いた。商店街を抜けて、公園の前を通り、小学校の角を曲がって、住宅街の裏道を歩いた。途中で自動販売機があったので、スポーツドリンクを買って飲みながらさらに歩いた。歩いているうちに、月が徐々に高くなってくる。もっと見晴しのいい場所はないのか。だがこの辺りには高い建物もないし、あったとしてもどこかの会社のビルの屋上に入り込むわけにもいかない。ぐるっと回ってまた公園の前に戻ってきた。少しばかり広い公園の中には誰もいなくて、ジャングルジムやブランコや砂場があって、いくつかベンチが置いてあった。俺はベンチに腰かけて、しばらく月見でもしようと思った。そういえが俺は、マックの月見バーガーを、今年まだ食べていない。
 「空に穴があいてるみたいだな」
誰に聞かれるでもない独り言を呟くと、何だか地味に寂しくなった。ついでに、地味に恥ずかしくなった。誰も聞いていないよな。周囲をきょろきょろ見回してみても、多分誰もいない。
「いねえよな、誰も」
地味に寂しくなる独り言を繰り返し、俺はスポーツドリンクを飲んだ。ビールを飲んでもいいけれど、今日はそんな気分になれなかった。
「すいません、聞いてました」
「えっ?」
「すいません、独り言聞こえてました。ホントに空に穴があいてるみたいですよね」
「えっ? 誰だよ?」
「ここです、ここ」
物凄く軽く独り言に参加してきた声の主は、ベンチの向かいのブランコに座っていた。
「誰? いやあの、どなたですか」
「通りすがりの男です。月見しに来ました」
「え、いつからそこにいました?」
月見バーガーを食べてないっておっしゃってた頃から」
「え、俺それ口に出してないし」
「いや、口に出してましたよ。口に出してないと思い込んでただけでしょう。聞いちゃってすみません。何だか話しかけた方が良さそうな雰囲気だったので」
そんな馬鹿な。口に出した覚えはない。俺が口に出したのは、「空に穴が云々」以降だ。
「ていうか、あなた誰ですか」
「だから通りすがりの男です。月見しに来たら、あなたがそこにいらっしゃったので距離置いてブランコに座りました。狭いですけど、ブランコ」
いててて、と男はブランコから立ち上がって、俺に向かって会釈した。会釈されると申し訳ないので、俺も立ち上がって会釈した。
「あんまり綺麗な満月なので、涼しいし月見でもした方がいいかと思ってここに来たんです」
ブランコのそばから動かず、その男は言った。街灯の灯りを頼りに見ると、俺と似た年格好の男のようだ。と言ってもただでさえ目が悪い俺には、顔まではあまり見えない。
「ブランコ狭くて座り心地悪いんですが、ベンチの方に行ってもいいですか?」
「あ、どうぞ」
「お月見団子、コンビニで買ってきてあるんですけど、ご一緒にいかがですか?」
「え、俺が?」
「あ、嫌ならいいですけど。俺一人で食べますが」
「いや、どっちでもいいです。甘いものは好きなんで」
「じゃあ一緒にお月見しますか」
俺は地味に寂しかったので、何となく怪しいが、通りすがりの男と一緒にお月見団子を食べることにした。

 彼がコンビニで買ったというお月見団子は、俺がさっき弁当を買う時にコンビニのレジ前で見かけたものと同じだった。実は俺もその時に一瞬買おうかと迷ったものだったので、少しもうかったとお得に感じた。
「あ、お金払った方がいいですか」
「いや、いいです。どうせヤマザキの安物ですから」
「そうですか、ごちそうさまです」
月見バーガーじゃなくてすみません」
だからそれは口に出してない。絶対に出してない。思っただけだ。
「それ、絶対に俺、言ってないですけど」
「おかしいな、聞こえましたけど」
「いや、言ってません。思っただけ」
「思ったでしょ? すいません、俺、聞こえちゃうんですよ、少しだけど。じゃあ聞かなかったことにします」
聞こえちゃう? って何?
「何が聞こえちゃうんですか?」
「他人の思ってることが。あと一歩で口に出そうなことくらいは、耳に入ってしまうんです、許してください」
許すも何も、意味がわからない。考えてみたらこいつの顔も良く見えないし、名前も知らない。ただの通りすがりだということがわかっているだけで、俺には何も情報がない。なのに、俺の考えていることはダダ漏れなのか。
「あの、俺に何かご用ですか? ご用っていうか、前に会ったことありますか?」
気味が悪くなってきたので、とりあえず座る位置を少し離した。ほんの5センチほど離れただけだ。これ以上離れると俺がベンチから落ちる。
「特に用事もないし、初対面です。偶然同じ公園にいただけですよ」
「でも…」
「かなり怪しいですよね、俺。ごめんなさい。でも怪しい者じゃないです、この近所に住んでるただのサラリーマンです」
「いや、怪しいです。詐欺か何かですか」
「もし詐欺だとしても、わざわざ自分が詐欺師だって名乗って近付くことはしないと思いますが」
「だったら怪しい者じゃないって言ってる時点でかなり怪しくないですか? ていうかどうしてそんなにフレンドリーなんですか。俺と知り合いじゃないですよね?」
「知り合いではないですけど…」
けど、なんだ。何かあるのか。俺はかなり気味が悪い。
「お月見団子、もういいんですか?」
「いいですもう。腹一杯だし」
「じゃあ、帰りましょうか。月見しながら」
そう言って、謎の男は立ち上がる。一つ残った団子を口の中に放り込んだ。街灯の光に照らされて、やっと顔が見えてきた。やっぱり同じくらいの年格好に見える。
「はい…じゃあ、さようなら」
「え? 帰らないんですか?」
「帰りますけど。俺んちに」
「だから、どうせ同じところじゃないですか」
「は?」
同じところって何だ。
「だって、103号室の山本さんでしょ?」

 公園のベンチで追求したら、謎の男の謎は非常に簡単に解けた。話を聞けば、彼は同じアパートの隣に住んでいる男だった。働いている会社もそこそこ名の売れている会社で、その点の怪しさはまるでなかった。なぜ俺のことを知っているかといえば、すぐに人の顔を覚える物覚えのいい頭によるというだけのことだった。俺は隣近所に興味はない。したがって、彼が隣に住んでいることすら知らなかった。
「以前にも山本さんのこと何度かお見かけしてたので、覚えてたんです。今は散歩してたら偶然同じ公園に辿り着いただけですよ」
「…つけてたんですか」
「つけてません。偶然ですってば。月見です月見」
そういえば、こいつが現れたせいで全く月を見ていない。月はどこへ行ったのだ。俺は空を見上げて首を回した。
「月なら、あっち」
「あ、ああ、ホントですね」
「お月見どころじゃなくなりましたね、すいません」
ホントだよ。一人でいればしばらく月でも眺めて、孤独にぶつぶつ呟いたりして、適当に家に帰ることができたのに。
「でも、多分明日も月は綺麗ですよ。晴れるから」
「そうですか…」
「山本さん、そんなに警戒しないでくださいよ。本当に詐欺でも何でもないただの隣人ですから」
「いや、現れ方がただの隣人的じゃなかったんで、しょうがないでしょ」
ぬるくなったスポーツドリンクをほとんど飲んでしまって、心細くなる。空気が乾燥しているからか、無性に喉が渇く。ペットボトルをどんなに傾けても、もう何も落ちてこなかった。自販機、ないのかな。
「あ、これ飲みます?」
隣人は、いや名前があった、田中だっけ、田中と名乗る隣人は、飲みかけのウーロン茶を差し出す。
「いいです、俺はポカリ飲みたいんで」
「すぐそこに自販機ありますよ。ポカリじゃないかもしれないけど」
「いや、あの、いいです。もう帰ります」
 俺は空のペットボトルを持って立ち上がった。ぼちぼち時間も遅くなってきたし、疲れてきた。明日は金曜日で、もうひと踏ん張り仕事をしなければならない。
「じゃあ、帰りましょうか」
「何も一緒に帰らなくてもいいですよ。田中さんはゆっくりしてってください」
「どうせ帰るし、同じことです。ご一緒させてください。せっかくだから」
田中と名乗る男は、強引ではないような顔をして強引だった。顔は本当に強引の「ご」の字もなさそうな優しそうな顔だった。別に隣に住んでいるからって、行動を共にする義理はないのだが。
 うまく断ることもできず、俺たちは連れ立ってアパートへの帰途に着いた。生まれはどこかとか、どこで何をして働いているのかとか、年はいくつだとか、全くどうでもいい話をした。少なくとも俺にとってはどうでもいい。聞いたそばから忘れても構わない情報だった。とりあえず年が同じだということだけ頭の中にインプットした。ついでに彼女がいないことも覚えておいた。そら見ろ、彼女いない歴何年なんて冴えない経歴を持っているのは俺だけじゃない。だが、そのことを取り上げてざまあみろと心の中で毒づくのは俺だけでいい。
「ひどいなあ、今ざまみろとか思ったでしょ」
「えっ、思ってない」
「思ってましたよ、聞こえましたから」
「人の心読むのやめてください。気持ち悪いから」
「読まなくても顔でわかりますし。今、超ざまみろって顔してましたよ」
「あんた妖怪か何かでしょ、人の心読むアレ」
「残念ながら妖怪じゃありません。まあそう思ってくださってもいいけど」
年が同じことと、彼女がいないことと、特記事項に人の心を勝手に読むことを添えておいた。それだけでも付き合わない方がいい相手に該当する。
「あの、隣に住んでるからって、心の中読んで変なことしないでください。ていうか俺、近々引っ越しますんで」
「え? そんな予定あるんですか?」
「今、決めたんです」
「なんで? ここわりといい町だと思いますけど」
「あんたが隣にいるからちょっと嫌です」
「はあ? 何もしませんよ。そんなばい菌みたいに言わないでください、人のこと。失礼だな」
「妖怪の隣に住みたくないです」
「妖怪じゃないってば。困ったな」
困るのは俺だ。顔を見るたびに何を考えているかばれたら大変だ。変なことを考えているのを見透かされるのも困る。変なことなんて別に考えてないけど。
 「あのですね、山本さん」
アパートの前で、田中は俺を立ち止まらせた。いやもう帰りたいし。
「俺は無闇矢鱈と人の心を読んで喜ぶ変態じゃないです。それにあなたの生活の邪魔をしようとしてるわけでもないんだから、そんなに気味悪がらないでください」
「いや、無理。無理だから、もう」
「何が無理ですか。結構楽しそうじゃないですか」
「えっ、誰が」
「あなたが」
「何を」
「俺と喋ってると結構楽しそうでしたよ」
「別に楽しくないですけど」
「つまらなそうでもなかったけどな…」
別に楽しんでない。確かにつまらなくもなかったけど。月見が台無しになっても、満月のことを忘れても、特に不快ではなかったのは確かだが、うきうきするほど楽しんだわけでもない。
「まあいいや。俺、102の田中ですから。せっかく喋ったし、また喋りましょう」
「…はあ」
 いや、引っ越す。俺は引っ越したい。隣に妖怪がいる。俺が月見バーガーを食べたいと思ったことを読み取った男が隣にいるとわかっただけで、軽く戦慄できる。俺は102号室を通り越して、103号室の自分の部屋に飛び込んだ。


 真ん丸の月は、翌日には少しばかり欠けているように見えた。残業したくなかったけど仕方がないから残業し、8時半過ぎに最寄り駅まで帰ってきた。明日は土曜日だから、ゆっくり休もう。俺は自販機で大好きなポカリを買って、昨日妙な出会いがあった公園に立ち寄った。
 夜の公園は相変わらず誰もいなくて、地味に寂しかった。ベンチに座って昨日のことを思い出すと、微かに楽しかった記憶がよみがえってくる。そんなはずはない。人の心を読むお化けと出会っても別に楽しくない。
 月は相変わらず白く光って綺麗だった。昨日ど真ん丸の時に、もっともっとよく見ておくのだった。あの真ん丸は8年後までおあずけなのだ。8年後の俺は何をしているだろうか。40才に近くなっていることだけは確かだ。現在、彼女いない歴数年の俺だが、次の中秋のど真ん丸には結婚でもして子どもができていたりするのだろうか。はっきり言って想像できない。結婚? すんのか俺? 別にしたくないけど、今は。相手もいないし。
「一生独身だったりして」
思わず独り言を呟いてしまった。声に出してみると、やはり地味に寂しくなった。突然声がかかるかなとブランコの方をじろじろ見たが、そこには誰もいなかった。
「いる方が気味悪いだろ」
今夜はわりと涼しい。涼しいを通り越して少し寒い。クールビズが終わっていて良かった。長袖のワイシャツでちょうどいい。
 ポカリをちびちびと飲みながら、お月見団子の味を思い出していた。安物らしい安物の美味しい味がした。コンビニレベルの美味しさだ。俺はコンビニレベルでそれなりに満足できるお安い舌を持っている。今夜の夕食は会社のそばのラーメン屋で済ませてきた。
「…ラーメン、あんま美味くなかったな…」
やっぱり隣のマックに入って月見バーガーを選ぶべきだったか。残業するのにマックでは物足りないかと思ってラーメンにしたけれど、ちょっとはずれた。
月見バーガー食べなかったんですか?」
「えっ」
「まさか今日もここにいるとは」
顔を上げると、スーツ姿の隣人と思しき男が少し離れたところに立っていた。手には仕事用らしきバッグとコンビニの袋を持っている。
「えっなに、俺の後つけたの?」
「つけてませんて」
「じゃあ何でここにいるんですか、あんた」
「それは俺のセリフです。俺が仕事帰りにコンビニに寄ってここに来てみたら、山本さんがいただけです」
田中は、田中だったよな、田中は俺の許しも得ず近付いてきて同じベンチに座った。座っていいなんて誰が言った。
「あ、隣失礼します」
「は、はい」
ガサガサとコンビニ袋から緑茶のペットボトルとサンドイッチを出してきて、彼は食事を始めた。
「ここで晩飯ですか?」
「はい、今夜も月が綺麗なので、月見がてら」
「よく月見する人ですね」
「あなたこそ」
そういえば、俺も月見に来たのか。あまり意識はしていなかったが、そういえばさっきから月を見ていた気がする。何か言い訳をしなければいけないと思って口を開く。
「昨日は、中秋の明月が満月だってニュースでやってたから。次の満月は8年後とか言うから」
「別に満月は中秋の明月じゃなくてもありますよ」
そりゃそうだろう。ただ何となく見ないともったいない気分になって散歩に出ただけだ。そのせいでこの男と話をする羽目になったのだけど。
 「サンドイッチなんかで腹一杯になりますか?」
たった3個しか入っていないサンドイッチをあっという間に食べてしまった田中に、俺はふと話しかけた。なんで話しかけるんだ。さっさと帰ればいいのに。俺かこいつかどっちかが。
「…満月に近い頃は、あまり腹が減らないんで」
「は?」
なんだって?
「あんまり食欲ないんで」
緑茶をごくごく飲む田中の横顔に、俺はつい声をかけ続ける。
「いやいやいやそうじゃなくて。食欲と満月とどうして関係あるんですか」
「え? そんなこと言いましたか俺?」
「言った。間違いなく聞いた。満月に近い頃は腹が減らなくてって」
「気のせいじゃないですか? ただ食欲ないだけですけど」
「いや嘘でしょ、言ったでしょ、何ごまかしてんですか、満月と食欲と関係あるとか何ですかあんた」
「じゃあそう言ったかもしれません。だとしても俺の体質ですから山本さんは何も心配しなくて結構です」
「心配はしてませんけど、なんで月と食欲?」
「だから体質」
そんな体質、聞いたことないし。俺はまた気味が悪くなった。この男は何だか普通の人間と違う感じがする。人の心が読めたり、月の満ち欠けで食欲が左右されたり。
「そんなに俺のこと心配してくれるんですか? 嬉しいけど心配してくれても食欲は出ないんで」
「心配してるわけじゃなくて」
「気になるんでしょ?」
言葉に詰まる。気になるのは確かにその通りだ。が、気になると認めるのもしゃくだ。
「…別に」
「聞きたいですか?」
「な、何を?」
「満月と食欲の関係」
「やっぱりあるのか。なんなんだあんた」
「じゃあ、俺んち行きましょうか」
田中は立ち上がって物凄くさり気なく変なことを言った。
「…は?」
「聞きたいんでしょ? ここじゃなんだから、俺んち来ません?」
「…なんかやだ」
「別に取って食やしませんから」
いや食うだろ。こいつ人取って食うだろ。こいつ人間みたいな顔して、人間じゃないだろ。月と関係あるとか、何だこいつ狼男? いやちょっと待て、考えてることばれる。
 ふう、と溜め息の音が風に乗ってきた。田中はもう一度ベンチに腰かけて、お茶を飲む。俺は何を言えばいいのかわからず、一緒になってポカリを飲んだ。
「俺は別に人の心とか読んだりしませんけどね」
いや読むだろ。読んだだろ昨日。俺は忘れていない。
「山本さんの顔、何が言いたいか物凄くわかりやすいのでわかります。どうせ俺のこと月と関係ある化け物か何かだと思ってるんでしょ」
「…やっぱり読んでるじゃないですか」
「だからあなたの顔がわかりやす過ぎるんです」
「そんなことはない」
「鏡で見たことないでしょ、狼狽えてる時の顔とか」
そんなもの見るか。狼狽えてる時に鏡なんか覗いてる暇はない。もう嫌だこいつ物凄く変な奴。俺は絶対に引っ越す。
 「俺ね」
不意に田中の顔が目の前に迫ってきて、驚く。うわこいつ結構イケメンだった。
「実は、狼男なんですよ。月が出てると活動的になるんです。普通の食欲は落ちるけど」
「ふ、普通の食欲ってなんだよ。普通じゃない食欲があるのかよ」
「まあね」
俺は思わず立ち上がって二歩ほど引き下がった。
「どうして逃げるんですか」
「取って食う気だろ、お前人間とか取って食うだろ」
「…面白い人だなあ、山本さんって」
「俺は全然面白くないぞ」
「いやかなり面白いです。別に今のは冗談です。さ、帰りましょうか」
ペットボトルのお茶を飲み干し、田中はもう一度立ち上がった。
「…どうぞお一人でお帰りください」
俺はとても一緒に帰る気分になれず、立ったままへっぴり腰で会釈した。物凄くかっこ悪い。ような気がする。田中がやたらと健康的な声で笑い出した。
「ホントに冗談ですってば。怖がらないでくださいよ」
「怖いっていうかもう全然楽しくないから。俺に関わらないでくれます?」
「最初から関係ないじゃないですか。ただ隣に住んでるってだけで。取って食うならとっくの昔に催眠術でもかけて食ってます」
 さあ帰りましょうと強引に促され、ついそれに従ってしまった。今日も。嫌ならそのまま公園に居座ればいいのに、時間的にももう家に帰りたい。昨日この田中とやらに出会ってから、調子が出ない。そもそも俺は調子の上がらない奴なのだが、いよいよ調子が出ない。もしかしたらこのままなし崩しに隣人が友人になるかもしれない。そんな気がして怖くなった。だいたい二日続けて同じ公園で会って一緒に家に帰るというコースが、端から見たら既に親しい友だちレベルだ。
 もう嫌だ。早く引っ越したい。


 土曜日はいつも昼近くまで惰眠を貪るのが俺の趣味だ。金曜日の夜から土曜日の午前までの時間ほど愛しているものはない。土曜日の夜は少し憂鬱で、日曜日の夜にサザエさんが終わったら俺は万年鬱になる。別に鬱病でも何でもないが、世のサラリーマンはだいたいこんな感じだろうと思っている。だから金曜日の夜くらい幸せでいたい。
 それなのに、昨日はよく眠れなかった。眠ったとは思うが、寝覚めが異常に悪い。何故か。わかり切っている。俺が自分の家で眠っていないからだ。ここは俺の部屋ではないからだ。
「俺はどうしてここにいるんだ?」
上半身を起こしてしばらくぼんやりして、ここが自分の部屋ではないことを確認してから俺は呟いた。
「え、覚えてないんですか? 昨日一緒に飲んだじゃないですか」
「いやだから何で?」
「ビールたくさんあるから飲みに来ますかって言ったらそのまま来ただけじゃないですか」
あまりよく覚えていない。とりあえずこの部屋が102号室の田中の部屋だということは、目の前の田中を見ればわかった。明るい太陽の中で見たら、やっぱり田中はイケメンだった。どうして彼女ができない?
「あ、山本さんて結構イケメンですね」
イケメンだと言われたことは、あまりない。悪いと言われたこともない。
「田中さんもイケメンですね」
言いたいことはこれじゃない。
「ありがとうございます。俺ほめられて伸びるタイプなんで、本心だと受け取っておきます」
世界で一番幸せであるはずの金曜日の夜と土曜日の朝を、何故隣人の男と過ごさなければならないのか。別に友だちじゃあるまいし。だいたい一昨日初めて口を聞いたばかりなのに。
「…なんでそんなに絶望的な顔してんですか?」
「あまり希望の持てるシチュエーションじゃないから」
「そうかなあ。昨日いろいろ喋って楽しかったですけど?」
楽しかっただろうか。俺はよく覚えていない。
「何喋ったっけ?」
「山本さんのモテ期が既に過ぎ去ったらしい話とか」
全然面白くない。俺のモテ期が大学時代で終了した話とか、全然面白くないから。
「山本さんが彼女いない歴4年5ヶ月で、俺と同じっていう話とか。二人揃って同じ日に彼女と別れたとか偶然ですねえ」
その話も全然面白くないから。全く同じ日に女と別れた偶然が何か意味があるみたいで物凄く嫌だ。
「何か意味でもあるんですかね、いっそ俺と山本さんが付き合っちゃえよってことですかね」
それ違うから。ただの偶然はただの偶然でしかないから。意味とか後付けする必要全然ないから。そんな侘びしい話しかしてないのか俺たちは。
「あ、オムレツ食います?」
「うん。…え?」
「俺がオムレツ作るの上手いって言ったら食わせろって言ったじゃないですか」
「そうだっけ」
「そうですよ。学生時代に洋食屋のバイトで鍛えましたから。塩味強い方がいいですか、それとも甘いのがいいですか?」
「甘いオムレツなんてこの世界にあり得ない」
「あり得る人もいるんですよね、これが。じゃあ辛いの作りますから待っててください」
「はい…トイレ貸してください」
「どうぞ」
 トイレに入ってから気付いたが、俺が着ているスウェットは何だ。これは俺のではない。ということは、田中のものを借りたのか。何となく嫌な感じがする。
「あのー…」
用を足してから、恐る恐る田中に聞いてみる。
「このスウェット、俺のじゃないですよね」
「俺のですよ。昨日貸したの忘れました?」
バターの焦げる香りがしてきて、卵がフライパンに叩き付けられるジャーっという音が響いた。
「…スウェットまで借りちゃって、すいません…」
「いいですよ、スーツしわくちゃになるのめんどくさいじゃないですか」
「だから借りた、と」
「はい、貸しました。着替えるかって聞いたら、うんって言ったから…山本さん、健忘症?」
「いえ…はい…すいません…ありがとうございます…」
やはりあまり覚えていない。どうして覚えていないのか、俺は。隣人の男の家に上がり込んで夜通し酒盛りして挙げ句の果てに着替えのスウェット借りて彼シャツならぬ彼スウェット状態か。何だか気が遠退くような感じがする。オムレツができる良い匂いが、かろうじて俺を現実に引き戻してくれる。腹が減った。ていうか、朝食までご馳走になる流れとかですかこれは。
「できましたよー。食パンないんでロールパンで我慢してください。コーヒー、インスタントですけど許してくださいね。ゴールドブレンドですけど」
なんてこった、至れり尽せりじゃないか。彼スウェット状態で朝飯まで食べさせてくれるイケメン。しかも目の前に置かれたオムレツの美味そうなこと。なにこれプロですか。きらっきらの黄色いオムレツじゃないですか。
「冷めないうちにどうぞ。はい、お箸」
「あ、ありがとう…」
余りにも美味そうなので遠慮なくぱくついたら、お袋のオムレツよりも数倍上だった。お母さん、ごめん。俺、今、オムレツ作るのが上手すぎる男に餌付けされてる。毎日このオムレツ食えるならこいつと結婚してもいい。俺ここで暮らしてもいい。中はちょうどいい程度の半熟具合で塩加減も俺の口にぴったりだった。なんですかこれ魔法ですか。オムレツ王子ですか。こんな男が隣に住んでるなんて、俺もうこのアパートから離れられない。今だったらこの男が他の女と結婚するのを全力で阻止できる自信がある。お願い誰とも結婚しないで。
 「…そんなに美味しかったですか?」
微妙に困ったような声がして、田中が俺の前にコーヒーを置いた。この香りはゴールドブレンドだ。俺も同じコーヒーだからわかる。さっき言ってたから間違いないけど。
「美味しいです」
「それは良かった。評判いいんですよね、誰か泊まりに来ると作ってやるんですけど」
「いやもう俺のためだけに作ってください」
「なんですかプロポーズですか。気が早い人だなあもう」
軽く流すな。
「あれ? 俺だけ? 田中さん食べないの?…オムレツ」
「だから昨日言ったじゃないですか、あまり食欲ないって。パン半分くらいでいいや」
そうだった。たった今思い出した。こいつは人の心が読める狼男だった。頭の中でいろんなことを端折ったが、結論はそれでいい。
「…やっぱり食欲ないんですか」
「まあ、普通の食欲はね」
「だから普通じゃない食欲ってなに」
「昨日話したこと、本当に覚えてないんですね。どうしてそんなに忘れるんですか。そんなに忘れたい記憶ですか」
「…微妙に忘れたかったから覚えてない」
田中はコーヒーを啜って、「あちぃ」と声を上げた。
「じゃあ、またそのうち話しますよ。次回のオムレツのネタにでもして」
「いや意味わかんない、それ」
「美味しかったんでしょ、オムレツ」
それはもう美味しかった。また食いたい。掛け値なしに美味だった。毎日このオムレツが食えるかもしれない田中の未来の妻は幸せだと思った。こいつが毎朝妻のためにオムレツを作り続けるかどうかはともかくとして。
 これはかなりヤバい。俺は一瞬で餌付けされてしまった。俺の舌はこんなにちょろかったのか。男として大切な何かを手放したような妙な気分がした。オムレツ一つで俺の舌など制することができるのだ。かなり情けない。
 その日俺は自宅に帰ってから、自分でオムレツを作ってみた。だが、無惨なスクランブルエッグになっただけで、味も大して良くなかった。田中のスウェットを洗濯機で回しながら、あんなオムレツを作る女と結婚したいと思った。いればの話だけど。

(続く)

-----