ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【BL】(2)月のかたちと二人のかたち

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(苦手な人は読まないで!)

(pixivより転載。昔書いたBL小説。全7話)

 

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 そういえば掃除機をかけようと目論んでいたことを突然思い出した。日曜日の真っ昼間、俺は面倒だが掃除機を出してかけ始めた。洗濯は昨日の夜のうちにしておいたので、もう乾いている。そうだ、田中にスウェットを返さなければいけない。掃除機をかけながら、俺はオムレツのことを考えていた。
「あれ、美味かったなあ…」
また食いたい。とは声に出さずにおいた。誰も聞いていないので声を出しても構わなかったが、声に出したら負けだと思い、出さずにおいた。
 しかし、たくさんビールをご馳走になる、スウェット借りて眠る、朝飯をご馳走になる、とサービスされっぱなしなので、何かお礼をしなければならないのではないか。どうやってお礼をしようか。菓子折りでも持っていくか。…ださい。金一封とか。…そんな義理はない。飲みか飯に誘うか。…なんか関係が深くなりそうで嫌だ。ではどうすればいいのか。そうだ、缶ビールたくさん買ってきてお礼にしよう。掃除機をかけ終えて、洗濯物を取り込み、田中スウェットをきちんとたたんで紙袋に入れておく。財布の中を確認すると、缶ビールいくつか買っても大丈夫な程度の残高はあった。天気もまあまあだし買い物に行こうと俺は玄関を出た。
 外から鍵を閉めていたら、隣のドアが開いた。え、ここでばったり会う流れですか。
「あれ、出かけるんですか?」
田中だ。当たり前だが。
「ちょっと駅前のスーパーまで買い物に」
「なんだ、俺もそうですよ。偶然ですね」
何この偶然続き。彼女と別れた日時も同じなら、駅前のスーパーに出かける日時も同じなのか。
「え、じゃあお先にどうぞ。俺は後から行きますんで」
「はあ? 何ですかそれ。一緒に行きましょうよ」
「いえ、いいです。男二人でスーパーとか別の流れみたいで」
「…偶然行くところが同じだっただけでしょ。照れてるんですか」
照れてなどいない。人聞きの悪いことを言うな。
「なんで俺が照れなきゃいけないんですか」
「そう見えたので」
「照れてませんよ。じゃあ一緒に行きましょう」
どうせこいつにあげるビール買いに行くだけだし。不本意ながら、数日連続で連れ立って過ごすことになってしまった。
 ぼんやりと想像していた通り、田中はまめに自炊する男らしく、スーパーで卵やら肉やら野菜やらを少しずつ買っていた。俺はビールしか用がないのだが、何かと田中が話しかけてくるので一緒にスーパーを回る。
「あれ? 山本さん、何も買わないの?」
「俺はビールを買おうと思って」
「ちゃんと自炊してます?」
「してません。コンビニ弁当です」
「あ、じゃあ晩飯食いに来ます? どうせ作るんだから二人分作りますよ。何食いたいですか?」
もう嫌だこの雰囲気。どこのカップルですか。一緒に買い物して、一緒に料理して、一緒にお食事ですか。
「いいですよ…悪いし。あ、ビールお礼に差し上げようと思って買い物に来たんです」
「え、いりませんよ、お礼なんて」
「そうもいかない」
田中は無駄に爽やかな笑顔を振りまいて、「気にしないでください」と笑った。しかしこの笑顔に甘えてもいけないので、俺は缶ビールを買った。銘柄は何が好きかと聞いたが、特に要望はないらしいので、仕方ないから自分の好きなビールを買った。
「じゃあ、そのビールで乾杯しましょう」
「え、明日仕事なのに」
「…山本さん、そんなにたくさん飲むつもりなんですか?」
「いや、飲みません飲みません。飲んでも一本だけ」
「なんかつまみでも作りますよ。寄ってってください。ていうか、明日休みですよ。秋分の日」
 そして結局、俺はまた田中の部屋にいた。返さねばならない田中スウェットだけは自分の部屋から持ってきた。彼はスウェットを受け取りながら、「今夜また山本さんがこれ着てたら笑えるんですけどね」と言ったが、微かに嫌な予感がしていた俺は聞かなかったことにした。断じて聞いていない。
 テレビでも見ていろと彼は言うが、それも悪いので俺はキッチンでうろうろしていた。何もすることがないのに、田中の背後でうろつくのは挙動不信かもしれない。
「あの、向こうで遊んでてくれていいんですけど」
「申し訳なくて。何の手伝いもしないの」
「手伝いとかいらないんで。マジでテレビとか見ててくれていいんですけど」
最終的には「邪魔です」と言い渡され、すごすごと引き下がった。テレビをつけると、別に見たくもない総理大臣の顔が目に飛び込んでくる。ニュースを見る気分にもなれなくて、適当にザッピングしていたら、黄色いオムレツが登場した。
「あ、美味そう」
どこかの町のグルメ番組か。オムレツの美味しい店か。俺は田中オムレツの美味さを思い出しながら、テレビ画面を眺めていた。この店のオムレツも美味いのかもしれないが、田中オムレツは多分ずっと負けない味だ。
「あ、そこのオムレツ、俺食ったことある」
出来上がった晩飯兼つまみを手に、田中はテレビを見やった。俺の前にツナサラダと鶏のから揚げが置かれる。鶏のから揚げ。男子の胃袋を掴むのにぴったりだろう。ちょっとニンニクが効いていればなお良い。さらに枝豆とだし巻卵も追加された。
「これくらいあればいいでしょ。山本さん、好き嫌いないですもんね」
「どうしてそんなこと知ってるんだ」
「なんとなくですけど。あんまりうるさくなさそうだなと思って」
「はい…好き嫌いありません」
 缶ビールを開けてとりあえず乾杯する。何に乾杯するのだろう。俺は思わず聞いてしまった。
「俺と山本さんの付き合い始めを祝って」
「付き合い始めって」
「いいじゃないですか、別に何でも」
そうだな、もう今さら何を言ってみても始まらない。俺は田中と普通に喋っているし、田中は俺の前でまるで普通の友だちみたいな顔をしている。こいつ人の心が読める狼男なのに。普通の人間じゃないのに。絶対普通の人じゃないのに。でも、田中の作った鶏のから揚げはちょうど良くニンニクが効いていて今まで食ったから揚げの中で一番美味かった。お母さん、ごめん。俺、田中の作るものの方が美味いと思う。
 どうせ俺とこいつ付き合ってるんだからと自暴自棄になって、金曜日の夜に聞いたはずだが覚えていない話を俺はもう一度聞くことにした。
「それで? 田中さん、狼男なの? この時期どうして食欲ないの?」
「あ、それ聞きます? 聞かないほうがいいかも」
「え、じゃあやめる」
「話してもいいんですけどね、どうせそのうちバレるから。ていうかバラすから」
その微妙に積極的な態度が気になる。自然に明るみに出るんじゃなくて、自分から明るみに出しちゃうのか。
「ビール、もっと飲みます?」
「いや、一本だけでいいってさっき言いました」
「でも明日、休みですよ。あ、山本さん出勤?」
「休み」
「じゃあいいじゃないですか。飲めば」
冷蔵庫から二本目が登場した。やっぱり俺こいつと付き合ってるんだとヤケになって二本目を開けた。
「明日、休みだったなんて忘れてた」
「二週続けて連休なんですよね」
ビールを飲みながら、田中の作ったつまみを食べる。どれも美味い。何を食っても美味い。料理上手な男とか許し難い。やっぱりこいつ普通の人間じゃない。
「狼男は料理が上手なんだ…」
「それ、別に関係ないですから」
「あ、狼男は必ずしも料理が上手くないと…」
「まあそうですね」
「やっぱり狼男なのか!」
「そうですね」
嫌だこの男。どこからどう見ても人間のくせに、やっぱり人間じゃないらしい。
「やっぱり狼男だったんだ…でも満月の日に変身してなかったじゃないですか」
「気が向かなければ変身しないので」
「そんな自由なもの?」
「自由です」
枝豆の塩加減がばっちりだ。このスキル、どうやって身につけるのだろうか。
「ただ、食欲だけは月と関係あるので。ちょっと不便ですね」
「その食欲のことだけど、一体なに?」
「満月の頃はこういう普通の食べ物があまり入らなくなるんです。まあ食べますけど」
確かに、さっきから田中は食べ物にあまり箸を付けない。ビールは飲んでいるが。
「普通でない食欲が出てくるんで、それを制御するのが大変なんですよ」
「…普通でないもので、何を食べたくなるんですか」
「平たく言っちゃえば人間なんですけど」
いやそれ平た過ぎるから。俺、今すぐ帰るべき?
「本当にガツガツ食うわけじゃありませんよ。流血沙汰とか起きませんから」
「起きたら犯罪だから、それ」
「合意の上で、食わせてもらいます」
「合意の上で…って…」
「ま、この辺で終了しましょう」
「嫌ですよ。謎が謎を呼ぶ」
「もうあまり謎はないです。俺は気が向けば狼に変身できる。実際先月奥多摩行って一走りしてきました。あとは満月の頃に食欲がなくなって人間が食べたくなる。以上」
「一番気になるところが明かされてないですよ」
「あとは俺と付き合ってればそのうちにわかります」
今後付き合い続けること前提なんだ。そうなんだ。俺、こいつとずっと付き合わなきゃいけないんだ。謎が解けるまで付き合ってなきゃいけないんだ。
「いや、謎が解けても付き合っててください」
「えっ?」
「あ、すみません。心読んじゃった」
「え、やめてください。気持ち悪いから」
田中がビール三本目に突入した。あまり酔っぱらいたくないので、俺はこのへんでやめる。と思ったら、もっと飲めと勧められた。
「気持ち悪いとか言わないでください。傷付くから」
「すみません」
 明日が休みだと思ったら、あまり我慢することもない。つまみも美味いし、ビールは進む。それに目の前の男が狼男だというにわかには信じ難いことを聞くと、現実から逃避したくてまたまた酒が進む。きっと嘘だ。冗談だ。でも心を読むのは冗談ではなさそうだ。実際にさっきも田中は俺が考えていることがわかっていた。
 俺は、一つ気になっていることを聞いた。
「この前公園で俺に声をかけたのは、偶然ですかね?」
「偶然って?」
「例えば以前から俺に声をかけようと思って狙ってたとか」
田中は少し笑った。ちょっとその笑い方やめろ。背中がぞわっとする。
「そうです。山本さんのことは前から知ってました」
「じゃあやっぱり、つけてたんだな?」
「まあね。ごめんなさい」
前から狙われてたんだ俺は。あの中秋の明月の夜、散歩に出ていなくてもいつかは声がかかったんだ。いずれにしてもこうなる運命だったんだ。なんか凄く嫌だ。嫌だけど、諦めるしかないのか。
「そんな嫌そうな顔しなくても」
「…あまり嬉しいシチュエーションじゃないので」
「俺と付き合ってても死ぬわけじゃないですよ。未だかつて不自然に死んだ人いませんけど」
「いてたまるか」
「だから安心して普通に毎日過ごせばいいんです。日常の中に俺が一人加わっただけで」
そんなに軽々しいものなのか。ある日突然狼男が現れて、日常の中に自然に加わってしまってもいいものなのか。
「でも、いつか俺は食われるんだな」
「死ぬわけじゃないですけどね」
はは、と軽く笑われる。
「食われるって、どうやって食われるんだ…血とか吸われるのか」
「それ、吸血鬼と間違えてます」
「ある日突然、魂が抜かれるのかな」
「だから死なないって言ってるのに。心配症だなあ、山本さんて」
「普通不安になるでしょ、人間じゃない奴が隣にいるとか怖いでしょ、あり得ないでしょ」
「あり得てるじゃないですか、普通にこうして喋ってるし」
「いや、あり得ないし」
俺の日常には、人間じゃない変なものが入ってくる余地は今までなかった。今後もない…と言いたいところだったが、いつの間にか入ってきていた。
「美味しいものならいくらでも作ってあげますから。俺と付き合いましょ?」
「もう付き合ってんじゃねえか」
「まあ今後ともよろしく」
俺のビールに田中のビールがべこんとぶつけられた。何に乾杯してるんだ。
「俺、好きだったんですよ、山本さんのこと」
俺は別に、こいつのことを好きじゃない。と思う。料理以外。

 

 秋分の日の朝、俺は再び田中の部屋で目を覚ました。そして再び田中スウェットを着ていた。こんな自分が嫌いになりそうだ。いい加減秋らしくなってきているのに雑魚寝状態で寝ていたためか、寒気を覚えてくしゃみが出た。隣で眠っていた田中が、ごろりと寝返りを打つ。
 まだ眠ってるのか。狼男も普通に眠るのか。考えてみたらこいつは普通に生活しているし、普通のサラリーマンらしい。言ってることが嘘じゃなければ。眠っている顔をまじまじと見ていたら、いきなり田中の目がばちんと開いた。
「わっ、びっくりした」
「じろじろ見ないでくださいよ、寝てたのに」
「寝てるのになんでじろじろ見てるってわかるんですか」
「視線感じましたんで。敏感なんです」
まあいいけど。男の寝顔なんか見ても楽しくないし。だいたい狼男だし。あまり突き付けられたくない現実だけど、どうやら本当だし。いや嘘でもいいけど、こいつが嘘ついても何の得にもならなさそうだし。そもそも俺に声をかけてきた時点で、それが多分こいつの得に繋がってるし。俺、こいつの何ですか?
 ちょっと待て、昨日の夜、妙なことを聞いた。
「…あの、俺のこと好きだとか言いました?」
横になったままの田中に、俺はぼそりと言った。田中は目をくるりとこちらに向け、不思議そうな顔をした。
「なに、山本さんまた覚えてないの?」
「い、いや、微かに覚えてる…というか…」
「言いましたよ、好きだったんですよねー山本さんのことがって」
両手で目をこすりながら、田中はあくびをした。ちょっと待ってあんまり覚醒しないでいいから。
「その好きってなに…」
「えっ!…嫌いの真逆…? じゃない、無関心の真逆です」
「はあ」
「山本さんに大いに関心があるという意味です。好きってそういうもんでしょ?」
「いや男から好きとか言われたことないし」
「俺から言われたじゃないですか。俺男ですよ」
何なんですか。それで俺はどうすればよろしいの?
「山本さんもそのうち俺のこと好きになりますから。まあ焦んないでください」
「そんなこと決めないでよ」
「別に決めてませんけど、山本さん俺のこと結構好きじゃないですか、もう」
「え、わかりません、そんなこと」
「そのうちわかります。付き合ってるうちに」
それでこのままなし崩し的に友人以上になるというのか。相手は男だというのに。彼女いない歴数年の俺に、いきなり彼氏ができるのか。しかも狼男の彼氏とか。二重三重にあり得ない。俺、彼女がほしい。でも相手がいない…
「男、嫌いですか?」
「嫌いっていうか、あり得ないですし」
「そうかなあ。結構あり得てますよ、山本さん。俺に会ってからまだ数日ですよ。でも物凄くいい感じですよ」
「いい感じって何が」
「いつでも俺に食われていいですって感じなところが」
「嫌だそれやめて。どうやって食うのか知らないけど嫌だ」
 その時、俺は。突如としてひらめいた。多分、これ間違ってない。
「…ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとすみません、ちょっと着替えてきます。ていうか帰ります」
かなり間近にいた田中から、ざざざざと後ずさりする。食われるって、意味わかったぞ。何これ狼男じゃなくてもかなり危険じゃないか。普通に男として危機じゃないか、この状況。
「は? どうしたんですか、急に?」
「か、帰ります」
「なんで? 今日まで休みですよ。ゆっくり朝飯でも食ってってください。オムレツ作りますから」
無駄に爽やかな笑顔出すな。その裏で何考えてんだ。決まってるよな、俺を食うこと考えてるんだ。そう簡単に食われてたまるか。
「あのね、山本さん…」
「は、はい」
「俺そんなにがっついてませんので。今ここでいきなり襲いかかったりしませんよ」
読まれてた。それはそれで、何だか恥ずかしい。
「心配しなくても何もしませんので。朝飯食ってってくださいね」
田中は起き上がって、あくびをしながらキッチンへ向かった。
 田中オムレツは今日も激烈に美味かった。非の打ちどころのない完璧なオムレツだ。俺はこのオムレツのために人生を捧げてもいい。と血迷ったことを思いがちな程度には美味しい。昨日食パンを買ってきておいたので、今朝はトーストだった。
「バター塗ります? あ、ジャムとかありますけど。いちごジャム」
「…いただきます…」
「いちごジャム、好きなんだ?」
「好きです。すいません」
「何も謝らなくても」
テーブルにトンと置かれたのは、どこでも見かけるアヲハタのいちごジャムだった。
「あ! レモンマーマレードもありますよ」
「レモン?」
「美味いですよ、食べてみてくださいよ」
もう一つ、トンと置かれたのは、やはりアヲハタのレモンマーマレードだった。初めて食べる。でもレモンだから、だいたい想像はつく。トーストに塗って、食べてみた。
「…美味い」
「でしょ? でしょ? これいけるんですよ!」
何だか物凄く俺の口に合ってしまって、ガツガツと食べてしまった。がっついているのは俺の方だ。主に「普通の」食べ物に。
 レモンマーマレードの美味しさに感動してぼーっとしていたら、俺の口元に田中の手が伸びてきた。何かと思ったら、俺のほっぺたに付いたマーマレードを指で拭って取った。
「付いてますよ」
指先に付いたマーマレードをぺろりと舐める。あの、お願いですから、そういうお約束みたいなことするのやめてもらえません?
「…山本さん、かなり変な顔ですけど」
「この状況でかっこいい顔とかできませんし」
「俺は別に何もしてませんよ」
そうなのか? 何もしていないのか? 俺の方がおかしいのか? すっかり頭が混乱して、身体も固まって動けない。レモンマーマレードの味、どんなんだったっけ。
 ぼんやりしていたら、田中の顔が目の前にあった。え? 何? なんの用?
「まぁ、何かしてもいいんですけどね、俺は」
小さな声が耳元でしたと思ったら、さっき指で拭われたところを、田中が舌で舐めた。え、舐めたの? 何それやめて。
「やっぱり美味しいですね、山本さんて」
俺はまた、座ったままざざざざと後ずさりした。後ずさりしたはいいけど、後ろはすぐ本棚があって、背中にどんとぶつかる。何ですか俺は今日ここでいきなり食われるんですか。突然のめくるめく嵐ですか。俺、どうすればいいのかわかりません。相手が狼男だけに、何されるかわからなくて結構怖い。
「怖がらないでください。何もしませんって」
「いや、してるし。なんか今、舐められたし」
「その程度、ゆるしてくださいよ。我慢してるんだから」
「我慢ってなに!」
「まあそれはまた今度。コーヒー冷めますよ」
「いや今度とかないし。今何かしましたよね、なんか俺舐められましたよね、ぬめっと」
「…そんなに特筆すべきことでもないんですがね」
する。俺はする。非常に気になる。普通、男が男のほっぺた舐めるか? 舐めないよな。俺は少なくともこれまでの人生で野郎のほっぺたなんか舐めたことない。ていうかその選択肢ないから。
「コーヒー、いらないの?」
「あ、すみません、飲みます」
 田中はコーヒーの入ったカップを俺の方にずいっと押し出し、立ち上がってキッチンへ行った。狼男がそばから離れて少しほっとする。微妙にぬるくなったコーヒーを飲むと、ちょっと苦い。朝だからかな、濃過ぎるな。
「牛乳、ほしいでしょ。コーヒー苦かったですよね」
「なんでわかるの。なんでそう俺の思ってること全部わかるの」
「なんでって、俺が自分で飲んでそう思っただけですけど」
なんだ、それだけのことか。また心でも読まれたのかと思った。
「…じゃあいただきます」
「牛乳はやっぱり、おいしい牛乳が美味しいですよね」
「…俺も、おいしい牛乳買ってます…」
牛乳inでいよいよ生ぬるくなったコーヒー牛乳を飲みながら、俺は部屋の隅で小さくなっていた。もう帰りたい。でもちょっと待て。俺が着てるのはまた田中スウェットじゃないか。てことはこれを持って帰ってまた洗濯して田中に返却しなくちゃならない。結局このパターンを繰り返して、なし崩し的に半同棲生活に突入するの?
「もうこのスウェットちょうだい」
「は? そんなにそれが好きなんですか?」
「そうじゃないです、返すのが嫌なんです」
「…そんなに俺のことが好きなのか」
ちがーう。誰がそんなこと言った。勝手に自分の都合のいい解釈すんな。
「そのスウェット山本さん専用に置いときますから、心配しなくてもいいですよ。いつでも泊まりにきてください」
「お泊まり前提ですか」
「だってこの数日で二回泊まったじゃないですか。もうあとは百回泊まっても五万回泊まっても同じですよ」
「無駄にスケール大きくしないで」
 なんか俺、マジで自分が嫌いになってきた。俺はどうして田中の言うこと素直に聞くんですか。どうして田中のペースに乗せられるんですか。どうして田中の言うことに逆らえないんですか。
「田中さん、他人を意のままに操れる術とか持ってるんでしょ」
「えっ、俺そんな力は持ってませんけど」
「嘘だ、持ってる」
「いやホントに持ってないです。そんな力あったらほしいくらいです」
「だって俺、田中さんの意のままに操られてるんですけど」
「ああ、それは山本さん自身の意思みたいだから。俺に流されるの気持ちいいんでしょ、きっと」
さらっと気持ち悪いこと言うな。俺の意思はどこにある。
「別にそんなこと気持ち良くありません」
「いやよいやよも好きのうち、とか言いますよね。それみたいなもん」
「好きじゃないし。俺、男に舐められたくないし」
「すぐに慣れますから、安心してください」
 なんかもうどこにも逃げられない気がする。何この追い詰められ感。秋分の日の田中も無駄に爽やかな笑顔を振りまいていて、一人で鬱になっている自分がとても損な奴に感じた。あまり気付きたくなかったけれど、俺は以前にもこんな風に男に好かれたことがあった。学生時代のことだけど。もしかして俺は男から好かれるんですか。しかも今回、性別男だけど人間じゃないし。もうこの流されやすい性格直したい。でも今さら直りそうにない。

 

(続く)

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