ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【BL】(5)月のかたちと二人のかたち

f:id:hammerklavier:20190603090028j:image

 

ボーイズラブ在庫処分品)

(pixivより転載。昔書いたBL小説。全7話)

 

-----

 

 ドライブなんて何年ぶりだろうか。田中の借りてきた白い車に乗り込んで、俺たちは秋の週末ドライブに出かけた。いや、終末ドライブかもしれない。田中が言うには「いい鍾乳洞があるんですよ」とのことだった。鍾乳洞にいいも悪いもあるのか。高校生の頃に修学旅行ででっかい鍾乳洞に入った覚えはあるが、「あれはいい鍾乳洞だった」としみじみ考えたりしたことは一度もない。30年弱の人生で、それほど鍾乳洞のことについて思いを馳せたことはない。
「で、その鍾乳洞、どこにあるの?」
途中で駅前のスタバに寄ってアイスカフェラテを買っておいたので、俺は助手席でそれをすすりながら運転する田中の横顔を見てたずねた。
奥多摩のさらに奥」
「へえ…」
「そばに川が流れてて気持ちいいんです。この時期だからかなり涼しいかも」
「暑いの苦手だから、ちょうどいいや」
ここから奥多摩は結構時間がかかりそうだ。俺は勝手に手を伸ばして、ラジオを付けてみた。音が鳴ったと思ったら、いきなりラジオ消された。
「何すんの。せっかく付けたのに」
「ラジオなんかつまんないでしょ。俺と喋りましょう」
「喋るネタがないです」
「えっ、付き合ってる人からそんなこと言われたの初めて」
嘘です。ホントはいくらでも言葉は口を付いて出てくる。ネタなんか一つもないのに、何故か喋ってて楽しい。俺とこいつはやっぱり付き合ってる。運転もうまいイケメンとか、俺にはもったいない。
「物凄くベタだけど、運転してる横顔にシビれます」
「そうそう、その調子」
「なんてかっこいいの。俺もう死にそう。助手席の女の子の気持ちわかる」
「いいんですか、信号赤だから止まりますよ」
赤なら止まるの当たり前だろと思ったら、キスされた。やめてください、他の車から見られます。思わず周囲をきょろきょろしてしまった。
「みんな自分のことで精一杯ですから、そんなに周囲の視線気にしなくていいんですよ」
と、田中は言うのだが、俺はどうしても気になる。
「山本さん、車に乗ってる時、そんなに他の車の中をジロジロ見るんですか?」
「そういえば、見ないか」
「でしょ? そんなもんですってば。だから赤になるたんびにキスしてもいいでしょ?」
気付いたら、また赤だった。当然のようにキスされた。
「…あんまりキスされると、ナチュラルに照れます」
「どんどん照れてください」
「ちょっと嫌だ」
 運転している田中は、いつものイケメンを三割増くらいにしたかっこ良さだった。運転してる男ってどうしてかっこいいのかわからない。なんてこと、思ったの生まれて初めてだ。俺だって運転できるけど、助手席から見たらかっこ良く見えるのだろうか。お願いおまわりさん、このイケメンどうにかしてください。
「こっちが照れますよ、山本さん」
「え、何が?」
「見つめてくれるのは嬉しいんですが、あんまり見つめられると今すぐ路肩に停車して犯したくなるので、ほどほどにしといてください」
「な、何を言うか。恥ずかしい」
「前にも何度も言ったでしょ。無駄にフェロモン出しまくりなんですよ、山本さんは」
ちょっと、前見て運転して。ここで心中とかしたくない。それに俺はフェロモンなんか出してない。以前から疑問だったが、そのフェロモンって何だ。俺は思わずスマホを出して辞書を引いてしまった。
「…俺はフェロモンなんか出してない」
みんながその言葉を非常に適当に使うものだから、自分も意味を知っているつもりになっていた。よく読んでみたら、これは別に俺には当てはまらない。
「いや、出してます。俺はバンバン刺激されまくりです」
「それって田中さん専用フェロモンじゃないの?」
「だったらいいんですけどね。うっかりすると変な虫が付くかもしれない」
「変な虫って。嫁入り前のお嬢様じゃあるまいし」
「未婚じゃないですか、嫁入り前じゃないですか。俺以外とセックスしたらもう殺してやる。キスも許さない。手も繋いじゃだめ」
「午前中から恥ずかしいこと言わないで。俺もう車降りたい」
「嬉しいくせに。ホント山本さんて素直じゃないな」
うわ、信号が赤になった。逃げるぞ、俺は。顔を素早く左に向けたら、田中が俺の右手を取って指先にキスをしたのがわかった。なんてこった、これじゃホントにお姫様じゃないか。背中がむずむずする。とてもじゃないけど、奥多摩まで精神が持たない。俺、鍾乳洞に入ったら、田中にキスしちゃうかもしれない。こんなに太陽は明るいのに、俺の目の前は何故か仄暗い。どういうことだ、これは。
 俺、もう絶対他の女の子と結婚できないと思う。田中と別れること、考えたくない。じゃあ一生、こいつと暮らすのか。それはそれで想像できない。おじいちゃんになっても二人で一緒にいるとか。
「あの、田中さん」
「はい、なんでしょう」
とりあえず何か喋った方がいいかと思って声をかけたが、何も言いたいことが思い付かない。
「…なに? なんかありましたか?」
俺が何も言わないので、田中は不思議そうな声を出した。
「気分悪いとか? 車、止めます?」
「いっいえ大丈夫です!」
「じゃあ何ですか。途中まで言ってやめるの気持ち悪いから全部話してくださいよ」
俺、何が言いたかったんだっけ。ついさっきまでは、将来のことをちょっと案じていたような。でも、そのこと話すのか。話してどうにかなるものなのか。
「俺、もう結婚できないんですかね」
ほら、しょうもない言葉しか出てこない。
「俺とですか? まあ男同士だからできませんね」
「違う。女と」
「できませんね」
ばっさりと否定するんですね。俺、逃げ場ないんですが。
「できないんですか…」
「したいんですか? 結婚」
「わかんない。でももう三十路に突入するし」
「俺も同い年ですよ。でも結婚してませんよ」
そうだよな。田中と俺は同い年。そして未婚。今どきこの年齢で独身でも別に不自然ではない。このまま田中とばっかりつるんでていいのかな、俺。
「山本さんてめんどくさい人だなあ。そこがいいんだけど」
田中、お前どうしてそんなに明るいんだ。悩みとかないのか。俺はあるぞ。この関係は一体どこへ行くのかということだ。
「いいじゃないですか、いっそホントにドロッドロになるまで付き合ってれば」
「何ですかそのドロッドロってのは」
「あまり意味はないです。山本さん、俺のこと好きじゃないの?」
「いや、そんなことはないです」
「好きなの、嫌いなの、どっち?」
「…好きです」
「じゃあ、それでいいじゃん」
いいのか、これで。俺どうも吹っ切れない。田中みたいにあっけらかんとした態度になれない。どうしてですか。田中が男だからですか。
 俺が何も言わなくなってしばらくしたら、いきなり車が路肩で止まった。え、何ですか。ここどこ?
「山本さん、こっち向いて」
「え、はい」
ちょっと待ってください、それやめて。まだ午前中です、朝のうちですから。そんなキスやめて。息止まるから。マジ苦しいです、助けて。うわ、舌が甘い。その味引っ込めて。こいつこそフェロモン出してるだろ。この味は反則だろ。勘弁して、頭の芯が痺れる。何も考えられません。
「ちょっとは落ち着いた?」
「…はい」
「あんまりごちゃごちゃ考えない方がいいですよ」
「そうですかね」
「山本さんのその性格、別に相手が女の子でも俺でも同じなので。考えるだけ無駄です」
無駄とか。ひどい。バカの考え休むに似たりかよ。悪かったな。
「それでもごちゃごちゃ考えるようだったら、そこいらのラブホに連れ込みますよ」
「い、嫌です」
「じゃあ大人しく俺に見とれててください。余計なこと考えない」
田中が再び車を発進させる。そうですか、お前の横顔に見とれてればいいんですね、俺は。わかりました。
 そうこうしている間に、いつの間にか車の外は田園風景が広がっていた。ホントに、いつの間にこんなところまで来たんだ。

 


 奥多摩の奥のそのまた奥に、本当に鍾乳洞が存在した。知らなかった。結構いいデートコースだな、これ。田中はどうしてこんなところ知ってるのだろう。二人で割り勘して入場料を払い、中に入ってみる。山の中なのでただでさえ涼しいのに、鍾乳洞の中は相当ひんやりしていてぶるりと震えがきた。
「うわあ…これ鍾乳洞ですね」
「鍾乳洞です。山本さん、芸のない言葉ですね。せめて何か感想でも言えば?」
「ひんやりしますね」
「…まあ、それでもいいです」
ところどころに観光客がいる。こんなところまで来る人がいるんだな。俺たちもそうか。鍾乳洞の独特の匂いがした。壁がぬめぬめしてる。蛇の中にいるみたいだ。蛇の中に入ったことないけど。
「あ、行き止まり」
うろうろしながら歩いていたら、立入禁止の表示が出現した。でも、その先も洞窟は続いている。俺は先に進んでみたくなった。
「ちょっと、何してんの」
先へ行こうとしたら、田中に止められた。
「いや、なんか面白そうだなと思って」
「立入禁止って書いてあるでしょ。勝手に入ったらダメですよ」
薄暗い鍾乳洞の中にいると、時間が止まったような不思議な感覚に陥った。
「入ったらダメなところって、入ってみたくない?」
「山本さん、それわりと危険思想」
「俺だけかな」
「気持ちはわかります。俺このまま山本さんと鍾乳洞の奥で暮らしたい」
いや、それは思わないけど。思わないけど、なんかわかる。時間、止まればいいのに。世界が止まっちゃえばいいのに。仕事も止まっちゃえばいいのに。あ、俺、今、田中にキスしてる。誰も来るなよ。絶対来るなよ。全部止まっちゃえ。
「嬉しいなあ、こんなところでキスしてもらった」
「したくなったから」
「やっぱり鍾乳洞の中で暮らしましょうか、山本さん素直になるから」
俺が願掛けしたからか何か知らないけど、ここさっきから全然人が来ない。ラッキー。
「そんなに素直じゃないかなあ、俺って」
「えっ、素直だと思ってんの?」
「…違ったか…ごめんなさい」
 薄暗くて非日常の空間に放り込まれれて、きっと今俺は吊り橋効果でこいつがほしいんだ。きっとそうだ。だから今は何でも吊り橋効果のせいにしよう。
「田中さん」
「はい」
やっぱりこいつ、俺より背が高い。何センチくらい違うんだろう。それほどでもないか。
「…俺、あんたのこと好きです。ものすごーく」
「はあ、俺も好きです。山本さんが俺のこと好きって思うよりも多分百倍以上」
「そうかな。俺も大概重症だと思うけど」
「自覚あるんだ? 山本さんのくせに」
「実は、あるんです」
「へえ…山本さんは家以外の場所ならマジで素直になる、と」
「吊り橋効果です。吊り橋効果の中なら何でも言えますから。もうお前のこと永遠に愛してる。俺のことしか見ちゃダメ」
「うわ、何これ凄い。今すぐ抱きたい」
「人さえ来なけりゃ死ぬほど抱いてほしい」
でも、そのうち人が来ちゃうんだよな。つまんないな。誰か来る前に立ち去った方が安全だよな。仕方ないので歩き始めたら、田中が後ろからがっちりホールドしてきた。あんまり強く抱きしめないでください。また転落しますんで。あ、耳噛まれた。
「山本さん、その状態ベッドまで持ってってくれませんかね」
耳元で囁かないで、くすぐったいから。
「ベッドの中は吊り橋効果ないんで」
「ホントは吊り橋なくてもいいくせに」
「吊り橋効果のせいにさせて。ていうか離してください人が来るから」
離れて歩き始めたら、他の人たちがこちらに来るところだった。良かった、見られなくて。心臓バクバク言ってる。こういう時、どこかわからない場所が痛くなる。どこだろう。心臓ですか。息が苦しくなる。何となく、涙が出そうになる。泣ける映画観たわけでもないのに、鼻の奥がツンとする。
「俺もう泣きたい」
「え、なんで?」
「なんか涙出そう」
田中にこんな繊細な気持ちわかるわけない。俺自身だってわからない。どうして鍾乳洞に来ると涙が出るんだ。鍾乳洞なんかもう来なくていい。泣けるから。
「田中さん、もう出ようよ」
「あ、はい」
「ここ泣けてくるから嫌だ。泣けるのは鍾乳洞のせいだ」
俺の頭の上に、田中の手がポンと乗っかった。
「鍾乳洞のせいじゃないですよ」
じゃあ何のせいだ。家にいてもこんなに泣きたくなったりしない。映画でも観ない限り。
「俺としては、ちょっとかなり嬉しい」
本当に嬉しそうな声を出して、田中は笑った。
「何が嬉しいんだ」
「山本さんがかなり真剣に自覚したことが。また後できっと抵抗するんでしょうけどね」
「抵抗しないぞ。俺お前のことめちゃくちゃ愛してる」
「わあ、今日の山本さんどうしちゃったの? クラッシュした?」
「田中さんが狼男でも吸血鬼でもフランケンシュタインでも愛してると思う」
「凄いなあ、吊り橋効果」
「認めちゃうの楽だね。もうお前のこと誰にも渡さない。大好き」
「はいはい、わかったわかった。ほら、もう出ましょう」
 鍾乳洞の外へ出ると、あり得ないくらい太陽が眩しかった。あれ、俺たち今、何してたの? 今まで異次元にいた気がする。
「山本さん、こっち。川に降りられるから」
ホントだ。水に触れそうだ。冷たいんだろうな。転ばないように気を付けて下へ降りていくと、数倍涼しかった。川のそばは冷たい風が吹いている。
「まだ涙出そうですか?」
「いや、もう止まった」
太陽と反比例なのだろうか。太陽浴びた途端、涙は消えた。しゃがみ込んで流れる水に手を浸してみると、あまりの冷たさにびっくりした。風邪引きそうだ。
「じゃあ、吊り橋効果も終わった?」
「どうだろう…」
どうだろうか、俺。吊り橋効果は続いてるのか。田中の顔を見ると、相変わらず無駄にイケメンだった。知らないうちに、俺はこの顔が好きになっていた。特に、目が。ぱしゃっと顔に水をかけられる。冷たいな。メガネが濡れた。
「俺が好きですか?」
「そんなこと恥ずかしくてこんなところじゃ言えない」
「誰も聞いてませんよ。むしろ鍾乳洞よりも安全かも。川の音うるさいし、人いないし」
本当だ、周囲には誰もいない。鍾乳洞の入口に何人か人が見えるけれど、川のほとりからは遠い。
「別に恥ずかしがること、ないと思いますが」
「何となく、太陽の下で言うのがはばかられる」
「夜まで待てない。聞かせてください。お願い」
お願いまでされると困る。恥ずかしいじゃないか。明るいところで言うことじゃないと思う。俺の尺度ではだけど、こういうことは暗い場所で言った方が楽だ。
「明るいから無理」
「強情だなあ」
「暗くなるまで待って」
「嫌だ、待ちません。今言って。俺のこと、どれくらい好きですか?」
腕、つかまれた。田中の手が冷たい。腕が濡れる。まだ半袖だからいいけど。
「山本さん、言って」
「…腕つかまないでください。人に見られる」
「誰も見てない。ホントに。誰も聞いてない。今言わなかったらきっと後悔すると思う」
「え…そうかな」
「今言わなかったら、俺あなたから離れていきますよ」
そんなのは嫌だ。田中が俺から離れるなんてあり得ない。どうしてそんなこと言うんだ。突然、心臓が痛くなった。鼻の奥もツンとしてきた。おかしい。映画観てないのに、俺。
「嫌です。離れるなんて、嘘でしょ?」
「嘘じゃない。だから、言って」
嘘じゃないのか。だったら言う。恥ずかしいのなんかどうでもいい。
「…田中さんのこと好きです。一生離れたくない」
掴まれていた部分が冷たかったはずなのに、いつの間にかあたたかくなっていた。田中が笑った。その笑顔は何だかとても優しそうだった。
「大丈夫です、今聞いたから、一生離れません」
「ホントに?」
「ああ、泣かないで。すみませんでした、いじめて」
別に泣いてない。つもりだったけど、視界がぼやける。胸が痛いし、胸がドキドキする。なんだこれ。ていうか俺は、いじめられてたのか。
「山本さん、キスしてもいい?」
「え、こんな公衆の面前で嫌です」
「じゃあ、後で。いいですか?」
「人の見てないところなら」
 ざあざあと流れる川のそばで、俺はしゃがみ込んで泣いていた。人に見られる。恥ずかしい。でも涙が止まらない。俺、田中のことが好きだ。どうして好きなのかわからないけど、田中のこと考えると胸が痛くなる。この感覚は、覚えがある。多分、きっと、恋だと思う。男に恋して何が悪い。誰にも迷惑なんかかけてないじゃないか。俺は田中が好きだ。田中も俺のことが好きなはずだ。どうしてそれだけじゃいけないんだ。

 


 その夜、俺は信じられないものを見た。田中に連れられて暗い山道を歩いて行って、「しばらくここで待ってて」と言われた場所で待っていたら、目の前に大きな犬が現れた。
『犬じゃないってば』
しかも喋った。日本語じゃないのに、何を言っているのかわかる。何ですか、この大きな犬。
『俺の話聞いてなかったんですか。狼男だって言ったでしょ』
「え、田中さんですか」
『田中です。今は狼モード』
信じられない。狼がこんな近くにいる。近付いてくる。俺の目の前で座った。
「…触っても怒らない?」
『なんで怒らなきゃいけないんですか。せっかく狼モード見せてあげてるのに』
しゃがんで、そっと狼の毛を触ってみた。ふわふわしているような、ごわごわしているような、不思議な感触だった。あ、目が光った。
「…ホントだ…田中さんですね…」
この目は、田中の目だ。金色に光る目。俺が愛してる目の色だ。舐めると物凄く甘い。ってことを知っているのは俺だけだ。
『いくらでも触っていいですよ。噛んだりしませんから』
「もし狼モードで人を噛んだらどうなるの?」
『軽く死にますね。噛まれた人が』
「じゃあ、噛んでみて。殺してみて」
『嫌ですよ。そしたら山本さんがいなくなっちゃうじゃないですか。俺どうすればいいの?』
「…そうだよな、それ困るよな」
凄く不思議だ。俺、狼と喋ってる。しかもこの狼、田中なんだ。こいつ、田中なんだ。田中って人間じゃなかったんだ、本当に。どっちがホントの田中なんだ。狼なのか、人間なのか。こいつ俺と同じ生き物じゃないんだ。
「…同じ生き物じゃないんだ…」
言葉にしたら、物凄く寂しくなってきた。また鼻の奥がツンとしてきた。俺、また泣くの?
 狼の田中を、ぎゅっと抱きしめてみた。あったかい。でも、人間の身体じゃない。人間と同じようにあったかいけど、今の田中は人間じゃない。
『山本さん、泣かないで』
頭の中に、田中の声が響いてくる。喋ると言っても、人間の言葉じゃない。
「泣いてない。田中さん、ずっと狼のままじゃないよね?」
金色の目を見たら、凄く綺麗に輝いていた。狼の田中が、俺の顔をぺろりと舐めた。大きな舌。やっぱり人間じゃない。だけど、舐められる感触は田中のそれと同じだった。
『変身は自由だって言ったでしょ。してもしなくてもどっちでもいいんです』
「一生人間のままだったら、どうなるの?」
『時々は変身しないと、身体がなまっちゃいますね。それくらい』
「…人間に戻って」
狼の鼻が、フンフンと俺の鼻先で動いている。いい匂い。全然動物くさくない。俺は田中狼の鼻にキスをした。
「人間に戻ってよ」
『そうだなあ、その前にちょっと一走りしてきてもいいですか?』
え、ここからいなくなるんですか。真っ暗な山ん中に、俺一人残されるんですか。ちょっと怖い。
「…どれくらいの時間かかる?」
『そうだな、30分くらいかな』
「え、長い。もっと短く」
『ああ、わかりました。今日はやめときます』
なんだ。別に走りに行かなくてもいいのか。一人で取り残されるのは、余りにも心細い。空を見上げると、まだ満月には少し遠いけど、真っ白な月が出ていた。
「田中さん、人間に戻ってよ」
『はいはい。じゃあちょっと離して』
「嫌だ。このまま人間に戻ってください」
『え、それ無理。危険です。変身してる時は離れてください、お願い』
どんな変身の仕方するんだ。危険な変身の仕方ってなんだ。
『ちょっと火花とか煙とか出るんで。もしかしたら、怪我させちゃうかもしれないから』
「怪我してもいい。ここで人間に戻ってください」
『我が侭だなあ、山本さんて。気持ちはわからないでもないけど、危険なことはしたくないんです。お願いだから少し離れて』
仕方なく、俺は抱きしめていた田中狼を離した。が、離れ難くてまた抱きしめてしまった。
『もう、なんなんですか。戻ってほしいの? ほしくないの?』
「…人間に戻ってほしいです。でも離れるのが嫌だ」
『山本さん、今のあなた凶悪なほどに据え膳なんですが。狼のままだと殺しちゃうんで、人間に戻らせてください』
顔をべろべろと舐められる。犬より大きいから、力が結構強い。俺は思わず尻もちをついた。田中狼がじゃれついてきた。尻尾ふってる。犬みたい。
『いいですか、ここから動かないでくださいよ。動いたら探せなくなるかもしれないから』
「どういう意味?」
『人間に戻ると、狼の時より鼻が効かなくなるから。いいですか、絶対動かないこと』
「は、はい」
 尻もちついてる俺を置いて、田中狼が走り去っていく。ちょっとどこまで行くの。ていうか、消えた? あれ? どこに行った? 俺は思わず立ち上がって少し歩いてしまった。いかん。動くなって言われてた。周囲は何の音も聞こえない。木々が風に吹かれる音だけだ。人もいないし、道路は遠い。もし田中が帰って来なかったらどうしよう。俺、迷子? 物凄く不安だ。田中、帰って来るよな。早く帰って来い、田中。
「おーい…まだですか…」
呟いてみるが、何の音もしない。足音も聞こえない。走りには行かないって言ったよな。だからもうすぐ帰って来るよな。もう嫌だ、早く帰って来て。俺、別に根性なしってわけじゃないけど、この状況はさすがに不安。
「田中さーん…」
何も聞こえない。
「田中のバーカ…」
試しに心にもないことを言ってみる。あいつのことバカだなんて思ったことないし。俺、寂しい。田中、早く帰って来てください。
「…山本さーん、ここここ、今行きます、ちょっと待って」
何だって。今の田中の声ですか。どこですか。どこ! 俺は物凄い勢いで周囲を見渡した。いた! 前方約15メートル! 俺は迷わず走った。つまずきそうになりながら走った。
「えっ、ちょっと待って危ない」
待たない。そこにいろ、田中。やっと会えた。
「…山本さん…超絶かわいいです」
「それ禁止って言ったぞ」
「いやでも他の表現が思い付かないし」
田中に抱きついたら、田中はしっかり人間に戻っていた。人間の肩だ。人間の腕だ。人間の首に人間の髪。目は金色のままだけど、耳も鼻も唇も人間のものに戻っている。俺は人間の田中の唇に噛み付いた。人間ですよね、お願いだから狼に戻らないでください。人間の腕で俺を抱きしめろ。
「うわーもうどうしよう。今すぐここで犯したい…」
「うるさい、黙ってろ、バカ」
痛いほど抱きしめられた。なんか嬉しい。
「さっきもバカって言いましたね、聞こえましたよ、田中のバーカって微かに」
「お前が帰って来ないからだ、バカ」
「置き去りにするわけないでしょ、レンタカー返さなきゃいけないし」
そうだった、今日の車はレンタカーだった。あの白い車。そう言えば今日はレンタカーで奥多摩の奥までドライブに来たんだった。今の田中狼出現で、今日一日のことは軽く忘れられる。
「もう、狼になんかならないでください、お願い」
「えー。せっかくサービスで見せてあげたのに。ウケなかったの?」
「ウケなかった。むしろ俺ショック」
鼻水が出そう。鼻の奥が痛い。鼻をすすったら、田中が俺の顔を覗き込んだ。
「泣いてんですか?」
「泣いてない」
「やだなあ、超泣いてるじゃないですか。顔びしょびしょ」
ええい、うるさい。俺は確かにびしょびしょになってる顔を手で拭った。もうこいつ嫌だ。どうして狼男なんだ。どうして普通の人間じゃないんだ。どうして俺とこいつは同じ種族の生き物じゃないんだ。寂しくて胸が痛い。
「あ、ごめんなさい」
田中がいきなり謝る。何ですか。
「心読んじゃいました。ごめんなさい。かえって不安にさせちゃいましたね、俺」
「心読むなってもう百回以上言った」
「だからごめんなさいって謝ってるじゃないですか。でも溢れまくってる時は聞こえちゃうんで、ホント許してくださいよ」
「いや、許せない。もう絶対に許さない」
「…じゃあ、何すれば許してくれますか?」
何すればって言われても。特に何か考えてるわけではない。今はとにかく田中が許せない。別に心を読んだから許せないわけじゃない。狼になるから、狼男だから、人間じゃないから、同じ種類の生き物じゃないから、どうして出会ってしまったのかわからないから、とにかく許せない。
「何すればいいかはわからないけど、もう家に帰りたい」
「そうですね、遅くなるから帰りましょう」
「帰ってもう寝る」
「えっ、一人でですか。俺、泣きますけど」
俺は何も言わなかった。一人がいいとはとてもじゃないけど言えなかった。だからと言って一緒にいたいとも言いにくかった。うまく言葉にできなかった。
 帰りの車の中で、俺は無口になってしまった。これ、俺のキャラと違う。違うけど、何故か口が開かない。田中は無理に俺に話しかけることはなかった。多分、心も読んでない。読んでないけどどうせ俺の中身はダダ漏れなんだ。きっと何しても無駄。俺の考えてることなんか、こいつにはとっくにわかってる。
 アパートに帰りついて、俺は自分の部屋に帰ろうか、しばし悩んだ。102号室と103号室の間で、しばらくうろうろしていた。何なんだ俺は、自分の家も忘れたのか。結局、102号室の田中の部屋に強引に連れ込まれた。田中は強引だったけれど、その夜はひどく優しかった。あり得ないくらい優しくて、俺はちょっと不安になった。

 


(続く)

-----