ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【BL】(7)月のかたちと二人のかたち

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ボーイズラブ最終回)

(pixivより転載。昔書いたBL小説。全7話)

 

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 やはり仕事を休むわけにはいかないので、翌日はきちんと出勤した。会社のそばのコンビニで、ポカリを3本買った。LINE女のデスクに行ったらもう出勤していたので、「これ、お礼」と言って渡したら少し嫌な顔をされた。どうしてだよ。
「今日かなり涼しいのに。ポカリ3本も飲まないわよ」
「じゃあ俺が飲む。返せよ」
「2本もらっとく。で、いい感じにいってるわけ?」
「多分。田中の作った鯖の味噌煮で大泣きした」
LINE女は目を丸くして叫んだ。
「何それ、超いい感じ? 鯖の味噌煮で泣くとかかなり羨ましいし! ちょっと幸せ分けてよ」
そんなこと言われても、どうやって分ければいいのか俺はわからない。
「無理。俺、幸せのお裾分けとかできないし。だからポカリ買ってきたんじゃんか」
「…まあいいや。とりあえず2本もらっとくから。何なのよもう、もっと高いもんおごりなさいよ」
「じゃあ、飯でも食いに行く?」
「いらない。その田中さん紹介して」
「それは無理。残念ながら」
「わかってるわよ。結婚式には呼んでもらうから」
LINE女に追い払われて、俺は自分のデスクに戻った。俺もういっそ田中と結婚したい。男同士って不便だな、結婚できないから。でも、結婚できるからいいってわけでもないだろう。結婚しても相性が悪ければどうせ離婚する。
 昼休み、俺は珍しく定食屋で昼飯を食った。田中以外の人が鯖の味噌煮を作るとどんな味になるのか、検証してみたかった。会社のそばの定食屋の鯖の味噌煮は、特別に美味しくもなかったしまずくもなかった。結局、昨日の晩飯が特別だったのかもしれない。田中は料理の中にいろんなものをバンバン入れたと言っていた。この定食屋の親父は俺のために何も入れてくれていないと思う。当然だけど。
 俺は昼休みの残り時間を、田中と電話して過ごした。なにも電話なんかしなくたって夜になれば直接話せるのに、どうしても声が聞きたかった。田中の声が実は低音だったことに、昨日初めて気付いたからだ。俺の声はあまり低くない。田中は電話があったことを驚いている。
『今日も電話くれるとは思いませんでしたよ』
「俺も今日も電話するとは思わなかったです。でも声が聞きたかったのですいません」
『うわーなんなんですか。俺もしかしてもうすぐ死ぬの?』
「なんで死ぬんだよ」
『いや、あんまり幸せで。山本さんが素直になってるし。雪でも降るんじゃないかと』
そんなこと言われなくても、俺は昨日で結構素直になってきた。まだまだかもしれないけど。田中にしてみれば、きっとまだまだだろうな。
『あれ、周り車がいますか? 山本さん、会社にいるんじゃないの?』
「今は外。昼飯食った帰り道」
『あ、そう。珍しいですね、外食なんて』
「そばの定食屋で鯖の味噌煮食ってきた」
『はあー? あなた俺のこと怒らせるの好きですね。バカにしてんですかこの野郎』
「そうじゃなくて。田中さんの鯖の味噌煮がどんなに美味かったかを検証したくて」
『ふうん。まあいいや。今夜何食べますか? リクエストありますか』
そうだな、何が食べたいかな。俺はぼんやり空を見上げた。昨日は雨が降っていたのに、今日は綺麗に晴れている。と、思ったら、何かが俺にぶつかった。ような気がする。え、今の何ですか。あれ?

 

 

 


 …気付いたら、俺はどこかの病院にいた。どこですか、ここは。頭が物凄く痛い。何これ痛い。ちょっと痛いですよ。何とかしてください。
「山本さん、大丈夫ですか? 気持ち悪いところ、ないですか?」
誰この人。白衣の天使? 俺、死んだんですか。
「…気持ち悪いところはありませんけど、痛い」
「それはそうでしょう。頭切ったんですから。5針縫いましたよ」
「え、縫った?…あ、俺、転んだのか…」
思い出した。田中と電話してる最中に、俺はよそ見をしていてビルの階段でつまずいた。つまずき方が悪くて、脚を滑らせて、ひっくり返って石段の角に頭をぶつけた。物凄く俺は間が抜けている。そうか、縫うほど切れたのか。改めて自分の姿を見ると、ワイシャツもネクタイも血みどろだった。何これ結構スプラッタ。切ったのは耳の後ろみたいだ。痛いな、ちくしょう。ていうか助けてくれたのどなたですか。そういえば、周囲の人たちが助けてくれた気がする。血みどろだったから。救急車も呼んでくれた気がする。うわどうしよう、俺生まれて初めて救急車乗っちまった。軽く自慢できる。いや、できない。
「取り急ぎ会社にお電話させていただきました。あ、今日はもうお仕事しないでお帰りになってくださいね」
可愛い白衣の天使が言った。もちろん帰ってやる。5針も縫って血みどろで仕事できるか。もう寝てやる。思いっきり寝てやる。眠る気満々だ。物凄く痛くて疲れた。あれ? 俺のスマホは?
「俺の荷物とか、どうなってますか?」
「こちらにありますよ」
白衣の天使は血のついたジャケットとスマホを持ってきてくれた。壊れてないよな。でも、病院だから電話とかしちゃいけないよな。こっそり動作確認してみたら、問題なかった。田中からメールが来ていて、留守電も入っているようだった。多分、物凄く心配している。早く連絡しないと。
 念のためCTを撮ったりレントゲンを撮ったり、腕が痛かったので診てもらったりしている間に、何とLINE女が俺のバッグを持ってやってきた。
「ちょっと、山本さん大丈夫? やだ凄いじゃん、血みどろじゃん」
「え、何でお前がここにいるの?」
「病院からの電話取ったのが私だっただけ。荷物持ってきてあげたんじゃないの、何その言い方」
「あ、そうなんだ…ありがとうございます、すいません…」
「その姿だし、タクシーで帰った方がいいね。送ってってあげるから」
LINE女に俺のアパートの在り処を明かすんですか。ちょっと抵抗ある。
「いいよ別に。一人で帰れる」
「ダメだよ、無理したら。途中でまたひっくり返ったらどうすんの。死ぬよ?」
それは勘弁して。
「死にたくないです、一緒に帰ってください」
 会計を済ませたり薬局で薬をもらったりしているうちに、どんどん時間は過ぎる。時計を見たら、もう4時半になっていた。LINE女、ごめん。仕事増やしちゃったな。今度ポカリ2リットルおごるから、許して。それにしても、何だかふらふらするな。
「実家に連絡とかは? しなくていいの?」
「えー…親に連絡かあ、面倒だな」
「一応しておいたら? それって結構大怪我だけど」
どうしよう。親に連絡したら、お袋とか飛んでくるかもしれない。わざわざそんな心配もかけたくない。死ぬわけじゃなし。
「俺、この怪我で死んだりしないよな?」
「知らないわよ、そんなこと。でも用心した方がいいと思うけど。頭だし」
「じゃあ、家に帰ってから連絡する」
病院のコンビニで絆創膏を買って、ついでにポカリを買って、LINE女とタクシーに乗り込んだ。意外と近所の病院だったので、すぐにアパートに到着する。ああ、傷口が痛い。じんじんする。最近の「縫う」ってホッチキスだなんて知らなかった。俺は紙か。俺の頭はホッチキスで止められて、自分が書類になった気分になる。
「悪いなあ、送ってもらって。あ、ポカリいる?」
「いらないっつの。自分で飲んで。一人暮らしでご飯とかどうすんのよ。大丈夫?」
そうだ、ご飯。今日も田中が作ってくれるはずだった。連絡しないと。
「うん、多分大丈夫だと思う…」
部屋の鍵をガチャリと開けたら、少し遠くから「山本さん!」と呼ばれた。振り向いたら、田中が血相を変えてアパートに駆け込んで来たところだった。
「あ、田中さん…」
俺が呟いたら、隣でLINE女が「えっ、やだ田中さんなの、いきなり登場?」とびびっていた。
「良かった、無事だったのか。途中で何も言わなくなったから絶対何かあったと思って、会社に電話しちゃいましたよ。あ、こんにちは。俺、山本さんの隣に住んでる者です」
田中は俺に話しかけたりLINE女に話しかけたり忙しそうだった。LINE女、田中と挨拶するのはいいけど、何をにやにやしてるんだ。
「すいません、心配かけちゃって。電話してる最中にすっ転んで頭打ったみたい。俺、間抜けかも」
「ホント間抜けですよ、心配するじゃないですか。しかも血みどろ」
「5針縫われました。ホッチキスで。ていうか田中さん、仕事は?」
「いや、俺のことはいいですから」
俺と田中の会話を聞いていたLINE女が、「田中さんがお隣なら、私帰っても大丈夫かしら」と言った。だからお前何故にやにやしてるんだ。田中が「あ、大丈夫です。あとは俺が。なにげに親しいので」と答えると、LINE女は俺に荷物を押し付けて帰った。帰り際に「なんか私、今度お好み焼きが食べたいわ。よろしく」と、捨て台詞を残して行った。何だよいきなりお好み焼きとか。わけわかんない。
 「あいついてくれて助かった。普段はろくなこと言わない女なのに」
俺がドアを開けて玄関に入りながらぼやくと、田中も一緒に入ってきた。多分これはかいがいしく看病してくれる流れに違いない。ありがとうございます。
「俺は面白くないですけどね、女の子が山本さんちに来るとかね。まあ非常事態だから許しますけどね」
「すみません、でも田中さんと俺と同じ会社じゃないから仕方ない」
「わかってますよ、でも思わず仕事早退してきちゃいましたよ。家族が事故に遭ったとか言っちゃったよ、どうしよう」
「えっ、そんなバレやすい嘘ついたわけ?」
「いいんです、もう。山本さんほとんど俺の家族だから。ほら、早くその血だらけの服着替えてくださいよ、もう」
鏡をちらりと見てみたら、あまりにも血だらけの血みどろだったので、俺は鏡を二度見してしまった。ちらっと見てから次ガン見。俺、Mr. ビーンみたい。
「俺、凄いな。超血みどろ。なんか今日殉職するみたい。ボスに来てもらわなきゃ」
「何ですかそれは、太陽にほえろですか」
「わかってくれてありがとうございます」
「ホントに死なれちゃ困るんで。早く着替えて。で、俺んち来てください」
え、そっち行くの? 俺はどうでもいいスウェットを出して着替えながら、この血だらけのスーツどうしよう、と思っていた。クリーニングで落ちるのかな。
「ものすごーく心配なので。寝食共にしていただきますから。あ、いつものことか」
「どうせ俺、田中家の住人ですもんね…」
「そうです。だから早く来てください。あ、急がないでくださいね」
どっちだよ。俺、急げばいいの? ゆっくりがいいの? どっちかにしてください。
 その後、俺は田中の部屋に移動して、会社に無事に帰宅したことを連絡した。病院には一週間後にホッチキス取りに来いと言われている。そんなにさっさと治るなら、親には連絡しないでおこうと思って電話しなかった。正直なところ、お袋が飛んでくるのが嫌だった。それよりも田中と一緒にいる方が良かったからだ。怪我をした俺は、いい加減に素直に仕上がった。

 

 

 怪我をしたのが水曜日だったので、俺はいい気になって木曜日と金曜日を休んだ。そうすれば長い連休になるし。我ながら堕落していると思ったが、上司は特に俺を叱らなかった。最初の二日くらいはひどく疲れて眠ってばかりいた。食欲もあまりなかった。田中は「食べなきゃもっと死にますよ」と、おかゆとかおじやとかいかにも病人食らしいものを作ってくれた。別に普通のものでも食べることはできるのだが、何故か身体がとても疲れていたので、その程度のものでちょうど良かった。
「ただ転んで切っただけなのに、どうして食欲出ないんだろう」
田中の部屋にほとんど居候状態になり、俺はポカリばかり飲んでいた。ポカリの甘さが身体に染みる。
「何ででしょうね。あんまり勢い良く転んだから、相当エネルギー使って疲労したんですかね」
「疲れたなら腹減りそうなもんなのに」
「疲れ過ぎると、食欲もなくなりますよ」
田中おじやはカツオだしが効いていて非常に美味しかった。こいつ本当に何でも作れるな。もしここにいるのがLINE女だったら、こんなに良くしてもらえないと思う。あり得ないこと想像する必要は全然ない。
「風呂、ざっと入りますか?」
「うえー痛いから嫌だなあ」
病院からは、風呂は毎日入っておけと言われていた。シャンプーしないでお湯で傷口の部分をざばーっと流して終了しろとのことだった。仕方ないので田中に後ろから洗面器でざばーっとやってもらう。これは一人ではちょっとやりにくい。田中がいて良かった。しかしお湯がかかる刺激も結構きつい。
「痛い痛い痛いです」
「どれくらい痛いのか俺にはわからないけど我慢してください。はい、後は自分で身体洗って」
「はい、ありがとうございます」
田中が風呂場から出て行ったら、俺は嫌々顔や身体を洗った。頭がじんじんしていて、何をやるにも鬱陶しい。あーもう仕事辞めたい。一生眠って過ごしたい。どんどんダメ人間っぷりがひどくなっていく。あれ、俺ってちょっと痩せたかな。風呂から上がって体重計に乗っかってみたら、特に変化はなかった。髪の毛拭くのがこの上なく痛い。
「風呂、ありがとうございましたー」
「はい、じゃあ絆創膏付けますよー」
「俺なんか痩せたような気がしてたけど、体重計乗ったら変わらなかった」
「別に痩せてないと思うけど。食欲ないからそんな気がしただけじゃないですか?」
 田中によるまったり看病生活は、文字通りまったり過ぎた。田中は仕事を休まなかったので、その間俺は眠ってばかりだった。念のため説明しておくと、俺は自分の布団を田中の部屋まで持ち込んで寝ていた。田中の部屋がその分狭くなったが、田中は全く問題にしていなかった。「一人で寝せておくの心配なので」と言って、俺が止めるのも聞かずに布団を無理矢理持って来た。というわけで、俺はもう一週間近く田中の部屋で引きこもっている。この様子は、やっぱり親には見せられない。込み入った事情を白状しないとしても、見られたくない。いいんだもうこの年だから。何でもかんでも親に白状しなければいけないわけでもない。そして俺の怪我は順調に治っていった。ちなみに、血みどろのスーツはオシャカになった。血のついたものは、クリーニングに出しても洗ってもらえないらしい。他の人の服も一緒に洗うからダメだと言われた。確かに逆の立場になって考えてみれば、他の人の血と一緒に俺の服を洗ってほしくない。残念ながら、一着おさらばだ。
 一週間が経って病院に行ってみたら、あっさりとホッチキスが外された。俺は書類生活に別れを告げた。これでもう俺は紙じゃない。まだ傷は痛むけど。ていうか痛いな。痛いんです。こんなところに後頭部が存在するなんて、俺は生まれて初めて知った。ご存知ですか、人間は頭に怪我をすると初めてそこに頭があることを知るんです。こんなどうでもいい情報は一生知らなくて良かったけれど、もう二度と電話しながらぼんやり歩いたりしないと、俺は固く心に誓った。
 ホッチキス抜糸が終わった後に出勤して、やる気がないけど仕事して、LINE女に抜糸できたことを報告した。LINE女はもう俺の傷のことなどどうでもいいようだった。「それだけ元気なら心配することなかった」とか言われた。悪かったな、元気で。おかげさまで痛み以外に悪いところはないらしい。腕を少し捻ったけれど、それも大したことはない。日々の生活は田中がどうにかしてくれるので、俺は物凄く恵まれている。一人だったらどうしていただろう。それはそれでどうにかなったとは思うが、そもそも田中と電話している時に転んだので、田中がいなければ今回の事故も起きなかったかもしれない。
「田中さんってああいう感じの人だったのね。あれが料理上手のイケメンかあ」
LINE女は俺からの貢ぎ物のポカリを飲みながら、にやにやした。その笑い方やめろ。
「はからずも紹介することになっちまったよ」
「私もまさか田中さんに会えるとは思わなかったわ。かっこいいね。あれが彼氏かあ、いいなあ」
何を言う。あれは俺のだ。お前にはやらないぞ。え、俺ってば今、何か思いましたね。
「お前、声が大きいです。周りに聞こえたらどうすんだ」
「誰も聞いてないって。毎日看病してもらってるんでしょ? 山本さん恵まれてるよ。隣の家に住んでるなら便利だし何でもアリよね」
「まあな」
こいつの言う通り、何でもアリだ。何たって俺は既に田中の部屋に住んでいる。自慢じゃないが、この一週間ほとんど家に帰らなかった。歩いて三歩なのに。自分ちから荷物を持って来ようと思っても、田中が行くと言って聞かないから。
「鯖の味噌煮で泣けた翌日に怪我したんだよね。その後看病三昧だから、うまくいってるんじゃない?」
「それなりに。多分」
お好み焼きじゃ済まないわね、これ。何かもっと高いもの巻き上げたい」
「じゃあ、今夜飯でも食いに行く?」
「行かない行かない。田中さんに妬かれるから。二人でイチャついてて」
なんのかんの言って、この女は理解してくれている。俺のダメなところも結構わかっている。俺が少しばかり素直になれたのも、この女のおかげかもしれない。こう見えても、俺はカンのいいこのLINE女にちょっと感謝していた。
「…ありがとな。なんかいろいろと」
感謝しているなら、やっぱりありがとうって言うべきだよな。
「礼には及ばねえ。明日も飲み物買ってきて。私、今度は綾鷹がいいわ」
「お前、このまま俺を永遠にパシリにする流れですかそれは」
「時々パシリしてもらうかもしれないけど、とりあえず明日で終了ね」
俺は急いで自動販売機に行って、綾鷹を買ってきた。LINE女に「これで終了にしてくれ」と言って渡したら、一応許してくれたらしい。
 日を追うごとに、頭の怪我は徐々に痛みも感じなくなってきて、傷を下にして眠っても気にならなくなってきた。もう田中の部屋から布団を移動させてもいいのだが、何となく面倒で俺はいまだに田中家の居候だ。怪我をした当初みたいに眠ってばかりの状態も脱したし、普通にばくばく飯を食うようになった。もちろん田中の手料理が主だが。一時間ほど残業してアパートに帰ってきて、久しぶりに自分の部屋に入ってみた。いかにも使われてません感が漂っていて、少し罪悪感がわいた。
「…掃除機でもかけようかなあ」
俺は地味に寂しくなる独り言を呟いて、掃除機を取り出した。田中も今日は残業らしく、まだ帰っていないようだ。暇つぶしに自分の部屋に掃除機をかけて、テーブルやパソコンやテレビの埃を拭き取った。俺、ここに部屋借りてる意味あるのかな。ここの毎月の家賃、払ってる意味あるのかな。ていうか、ないよな。かなりないよな。今や食費だって田中に払う時代に突入している。だいたい俺は田中の部屋の合鍵を持っているんだぞ。毎月十万近い家賃が、物凄く無駄なことをしている気分になってきた。あ、ヤバい。もしかして俺、何か考えてますか。新たな境地に一歩を踏み出そうとしてますか。
 掃除が終わったので、俺は田中の部屋に移動した。もちろん、合鍵でだ。合鍵持っちゃう間柄。いやもうこれデキてるでしょ。今さら言うほどのこともなく、俺と田中はデキている。
「あー遅くなりました。え、どうしたんですか、そんなところに突っ立って」
田中が帰って来た。俺は田中の部屋の玄関に突っ立っていた。開いたドアを挟んだ中と外で、俺と田中は5秒くらい見つめ合う。ドアの外からやけに爽やかな風が吹き込んだ。いつの間にやら、すっかり秋だ。
「あのさあ、田中さん」
「はい。どうしたの? 何かあった?」
「俺たち、一緒に暮らそうか」
どたばたと大きな音を立てて、田中が俺の脇を通り抜けて部屋に入って行った。俺は唖然として田中を眺めていた。何でそんなに慌ててるの?
「山本さん! 何してんですか! こっち来て、早く!」
「え? え?」
「遅い! ぐずぐずしない!」
何か叱られるのかとびびりながら部屋に入ると、がばっと抱きつかれた。げっ、痛いです、頭が。まだ全快してないから、手荒に扱わないで。
「俺もう今すぐゼクシィ買いに行く。山本さん、披露宴の会場どこがいい?」
「え、田中さん、落ち着いて。誰にも披露とかしたくないんだけど。密やかに暮らしたい、俺」
「じゃあ、結婚指輪買いましょう。どこのブランドがいい? やっぱ4℃が定番ですか」
「指輪も買わないってば。ちょっと田中さん、血迷わないでください」
「もう死んでもいい。不動産屋行きましょう。ここらへん、腐るほどあるし。山本さんの好きなところに住みましょう」
あの、物凄く苦しいです、物理的に。ちょっと離して。そんな全力で抱きしめないでください、頼むから。俺、死にそう。
「山本さんがそう言ってくれるの待ってましたから、俺。超待ってましたから。この前、怪我してくれてありがとう」
「怪我のおかげなのかよ」
「あれで親密度が増した感は否めない。でも理由なんて何でもいい。今の事実が大事」
そりゃまあ、確かにそうだけど。怪我したせいで、ほとんど居候になってしまったし。居候している間に、一緒に住むのが自然体になってきただけで。でも、本当に一緒に住んだら、喧嘩とかしそうで怖い。俺は喧嘩が苦手だ。憶病者だから、うまく喧嘩できない。
「いいじゃないですかあ喧嘩なんて! 喧嘩するほど仲がいいって言うんですよ! 夫婦喧嘩は犬も食わないって言うんですよ!」
「おい、今心読んだだろ」
「うるさいなあ、たまにはいいでしょ! ケチケチすんなこのバカ野郎!」
「おい今バカって言ったな、もうやめた、絶対一緒に住まない!」
「ダメです、前言撤回不可です! もう絶対離さない、このツンデレ男!」
「いててて、おい、頭が痛い」
「あ、ごめんなさい。でも絶対離すの嫌だ」
あり得ないほどに取り乱している田中の様子に、俺は少し笑えた。こんなに喜ばれるなんて、思ってもみなかった。田中だけが嬉しいわけじゃない。俺もちょっと嬉しかった。しばらく経ったら、田中と俺は正式な同居人になっているかもしれない。喧嘩したらどうしようって思ったけれど、そんなことは取り越し苦労かもしれない。それよりも、今ちょっと嬉しくなっている自分の気持ちに素直になってみようとして、俺は田中の耳に噛み付いた。この耳が、変身すると狼の耳になることを俺は知っていたけれど、実はそんなこと大きな問題ではないことに気付き始めていた。

 

 


 11月の満月は、18日の月曜日になる頃だった。いつ満月かやってくるのか、俺はついぞ考えたことがない。田中は本能でキャッチするから調べたことはないらしいが、どうやらネットで探せば満月がいつ来るのかわかるらしい。だから俺はさくっと検索してみた。18日と言えば、明日じゃないか。
 考えてみたら、中秋の明月の夜に田中にナンパされてから、まだたったの二ヶ月しか経っていない。それなのに、俺と田中は既にリアルに同居人になってしまった。ここまでやけに軽いノリで辿り着いちゃった感じがする。「一緒に暮らそうか」と俺が言ったばっかりに、田中はかつてないほどエキサイトして不動産屋巡りをしていた。俺が一緒に行く必要すらなかったくらいだ。どうせ男二人で行っても変な目で見られるかもしれないので、俺は行かずにほっとした。こんなところが俺はまだ解放されていない。いいじゃん、ただのルームシェアじゃん。周囲の目、気にするのやめろよ、俺。
 しかし、引っ越したことは実家に知らせなければならない。親に言わなければならない。こればっかりは頭を抱えた。田中からは「だからルームシェアだって言ってんのに」と呆れられたが、心にやましいところがあって、なんて説明すればいいのか激しく悩んだ。結局はルームシェアだと説明しただけなのだが。もう少し広い部屋に住みたいから、という理由にしておいた。ああーお母さんごめんなさい。俺は嘘をついています。別に広い部屋なんかいりません。俺、ただ田中と一緒にいたいだけなんです。あなたの息子は多分もう結婚しません。田中とほぼ結婚しちゃったから。孫もお見せできません。男同士なので。ホント許して。マジ許して。親父、勘当しないで。
 晩飯を食って食器洗ったり片付けたりした後、田中は「散歩に行こう」と言い出した。
「え、今から? もう結構遅いけど」
「今夜、満月だから。月が綺麗ですよ」
そうか、あと数時間で18日になるから、月ももうすぐ真ん丸になる。今日は天気が良かったから、きっと綺麗だろう。もう外は結構寒い。軽いダウンを着て、外へ出てみた。新しく借りたマンションの部屋は、前と違って3階だ。しかもエレベーターが付いている。俺たちはわりといい部屋に住んでいると思う。でも、家賃を折半しているので、全く負担にならない。そして、前のアパートからそれほど離れてはいなかった。同じ町内で引っ越せたので、意外と楽だった。
 少しばかり冷えるので、自動販売機であったかいお茶を買った。そういえば、暑い頃はポカリばかり飲んでいたことを思い出す。季節は瞬間的に変わってしまうのだなと、妙に感傷的な気分になった。肌寒くなってくると、何となく人恋しくなる。いや、田中がいるからその点無問題なんだけど。
「うわ、月が真ん丸」
「そりゃ満月だから。相変わらず山本さんてボキャ貧ですよね」
「うるさい。どうせ俺は詩心がないよ」
真っ白で真ん丸な月は、ボロメガネをかけた俺の目からは、やっぱり三つに重なって見えた。三つではあるけれど、中心の月が真ん丸だということはわかるので、良しとしておくことにする。こんなことでメガネを買い替えるのは悔しい。
「公園、行きましょうか」
「田中さんが俺をナンパした公園ですか」
「そうです。何ですか、嫌なんですか」
別に嫌じゃない。嫌じゃないけど、照れくさい。最近俺はよく照れる。理由は何故かわからない。いろんなことに素直になっても、まだどこかで抵抗しているらしい。田中はこんな俺に、よくもまあ付き合っていると思う。よく考えてみたら、こいつは変わってる。俺って結構めんどくさい奴なのに。
「嫌じゃないです。行こうか」
商店街をぶらぶら歩いて、小学校のそばを通り抜けて、俺がナンパされた公園に辿り着く。夜遅い公園には思った通り誰もいなくて、街灯と月明かりが広い空間をぼんやりと照らしていた。その中で、俺が座っていたベンチと、田中が座っていたブランコが何故だか目立って見えた。
 ベンチに座っていると、冷たい風が吹いてくる。あったかいお茶、買っておいて良かった。ペットボトルを開けて飲んでみると、まだかなり熱かった。
「山本さん」
「はい」
「月が綺麗ですね」
「そうですね」
本当に月が綺麗だ。と思っていたら、「おい」と田中が突っ込んできた。
「え、何ですか」
「月が綺麗ですね、って言ってんのに」
「え、だから俺もそうですねって答えたのに」
田中は怒ったような笑ったような妙な表情で俺をじっと見た。何ですか、その顔。俺、何かおかしいですか。
「意味、知らないの?」
「意味って何の?」
なんだよ、意味って。よくわからない。俺が買ったお茶を、田中が横取りして飲む。それ、俺のです。取らないで。
「バーカ。『月が綺麗ですね』ってそのまんまググれカス」
「ええっ! ググれカスとかリアルに言われた」
「月が綺麗ですね、の意味知らないとか残念過ぎますね。今すぐググれ」
「ごめん、スマホ忘れた…」
俺、もしかして残念過ぎますか。ここでスマホ忘れてくるとか空気読めなさ過ぎる?
「じゃあ、俺が見せてあげますから」
スマホを取り出して、田中が何かをググっている。意外と明るい液晶画面に照らされた田中の横顔には、少しだけ狼に変身した時の面影があった。満月だよな、変身しなくていいのかな。意味もなくセンチメンタルになっている俺の目の前に、ドンとスマホが出された。
「はい、この説明読んで。特別に声に出さなくても許すから」
「え、ホントは声に出さないといけないの?」
「大声で読ませたい気分だけど我慢する」
俺はそのページを上から下まで読んだ。顔から火が噴き出した。何これ。『月が綺麗ですね』って、そんな有名な意味があったんですか。俺、知りませんでした。どうしよう。これって常識?
「…読みました」
「はい、よく読めました」
「ごめん、意味知らなかった。ていうかそんな言葉あるの初めて知った」
「まあ実話かどうかは知らないけどね」
ということは。俺は田中から、「月が綺麗ですね」って言われちゃったんだ。うわ、照れる。どうすればいいんですか、俺。軽く照れる。改めて言われると、物凄く照れる。
「山本さん、暗くてよく見えないけど断言します。顔、真っ赤」
「み、見えないのになんでわかるんだよ。赤くない」
「自分で見えないくせに。まあ、いいけど」
呆れられてるのか、俺は。もしかして俺って、かなり残念な奴なんじゃないだろうか。味も素っ気もムードもない。いや、そんなものなくてもいいけど。俺の今までの人生には関係のないものだったけど。だからこういう時、どんな反応すればいいんですか。
「山本さんさあ、今まで女の子とどうやって付き合ってたの? 俺、素朴に疑問だ」
「どうやってって、普通」
「山本さんの普通って、多分女の子には物足りないかもね。だからふられるんだよ」
なんて失敬な。どうして俺はナンパされた公園で二ヶ月後にこき下ろされてるんですか。俺もう泣きたい。
「まあいいか。どうせもう他の奴に渡さないし。俺のものだから」
俺から横取りしたお茶を、田中は勝手に飲み続ける。だから横取りするなって言ってるのに。え、今、ナチュラルに恥ずかしいこと言いませんでしたか。聞き逃したいけど、聞き逃せなかった。
「ちょ、ちょっと、もう一度スマホ貸して」
「はい、どうぞ」
俺は田中のスマホで再度『月が綺麗ですね』をググった。いくつかページを見て、いいもの見付けた。これだ。これを言えばいいんだ。
「田中さん」
「はい?」
「俺、もう死んでもいい」
「…まあそうだろうね。言うと思った」
え、知ってたの? これも常識? 知らなかったの俺だけ? もう嫌だ、俺、泣きます。
「ホント、山本さんてわかりやすい人だよね。今すぐキスしたい。しますよ」
「いややめてください、ここ外です、誰かが見る」
「誰もいないじゃん、ここ」
「え、でも」
「でもじゃない。諦めろ」
…キスされた。どうしよう、ここ外なのに。皆様の公園なのに。俺とこいつデキてますって大公開してしまった。誰もいないけど。ホントに誰もいないんだろうな。誰も覗いてないだろうな。俺は無駄にきょろきょろした。
「誰もいないってのに。往生際の悪い人だなあ」
「それ聞き飽きた。どうせ俺は往生際が悪いよ」
また風が吹いてきた。さっきはとても冷たく感じたのに、今は全く冷たく感じなかった。何故かというと、田中が俺を抱きしめたからだった。うわーやめてください。外でそういうこと勘弁してください。と思っていたら、すぐに離れてくれた。良かった。
「もう諦めてくださいよ。だいたい一緒に暮らしてるってのに。素直になるの下手な人だな」
「これでもかなり素直になりましたが。一緒に暮らそうって言ったの俺だし」
田中は笑った。こいつ、楽しそうだ。こいつが楽しそうだと、何となく俺も嬉しくなる。ということに、最近気付いた。
 ベンチに座っていると、向こうのブランコから初めて声をかけられた日を思い出す。こんなことになるなんて、誰が想像しただろう。田中はわかっていたのだろうか。まさか未来を予測する力はないよな。でも、今になって俺は思う。声、かけてくれて、ありがとう。
「田中さん」
「何ですか?」
「…月が、綺麗ですね」
「そうですね。世界で一番綺麗だ」
「…今度、いつ変身するの?」
「山本さんが、狼の俺に会いたいって思った時にでもしましょうか」
田中の目が、金色に光った。俺はいつ、田中狼に会いたいと思うだろうか。今はまだ、変身してほしくない。そのうちに狼に会いたいと思うだろうか。それとも永遠に会いたいとは思わないのだろうか。少しぬるくなったペットボトルのお茶を飲んで、考えてみる。考えても、まだ答えはない。
 うちに帰りましょう、と田中が立ち上がったので、俺も立ち上がる。歩き始めた田中の背中を見ていたら、鼻の奥がツンとした。この気持ちはずっと忘れないでいい。田中狼に会って泣けた時の気持ちも、ずっと忘れなくていい。追いかけて、肩を並べて歩いた。二ヶ月前と帰り道は違うけれど、同じように田中が隣にいることが凄く嬉しかった。一瞬だけど、手を繋ぎたいと思った。思った自分に驚く。だけど、言わないでおく。二ヶ月前に会った時から、俺の中身はダダ漏れだから。こいつには、どうせ何も隠せないから。もう、隠すこともない。
 11月の満月は、中秋の明月よりも、もっともっと美しかった。

 


(おしまい)

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