ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】2 永遠に終わらない冬

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 森山真実(まさみ)は明け方にとても嫌な夢を見て目が覚めた。しばらくは夢と現の間を行き来していたが、携帯電話のメールが着信する音楽でようやく目覚めることができた。不機嫌な心持ちで携帯を手に取ると、つまらない広告メールだった。腹立たしくも感じたが、今朝に限っては悪夢から目を覚ましてくれたから許してやろうと思った。
 ベッドの上で欠伸をしながら頬を撫でる。起き抜けの癖だ。朝にもなれば、あまり濃くない髭も伸びている。頬から手を離し、真実は昨夜の一件をそれこそ夢のように思い出していた。


 血を分けた四つ年上の姉である結子(ゆいこ)に、自らの恋心を身勝手に押し付けてしまったことを。
 真実は幾ばくかの悔いを覚えたが、過ぎてしまった時間を取り戻すことはできないし、発してしまった言葉をもう一度呑み込むことはできない。姉は苦しんだろう。昨夜は眠れなかったかもしれない。目覚めているならば、今も苦しんでいるだろう。好きだと告げた瞬間、そして本当の意味を理解した瞬間、彼女が見せた驚愕の表情を忘れることができない。けれども真実には、結子が完全に真実自身を拒否しているようには感じられなかった。惚れた者の自分勝手な思い込みか、錯角か。しかしもし彼女が生理的拒否をするならば、もっと違う表情をするだろう。真実は弟だけに、姉の様々な内向きの表情を見て育ってきた。生理的嫌悪を感じる時、異性を拒否したい時、無理なことを言われた時など、瞬間的にどのような顔を見せるか真実は知っている。だからつい、受け入れてもらえるような可能性を感じてしまった。
 だが、一夜明けてみて考える。全ては自分勝手な行動で、結子の気持ちなど知らない。どうすれば姉の気持ちを見ることができるのか、自分がいかほどに拒否されているのか、いかほどに許されるのか、そしていかほどに愛される可能性があるのか、弟として愛されている実感があるけれど男として愛される可能性など豆粒ほどでもあるのかないのか、真実の頭は姉のことで一杯になっていた。
 常識で考えてみれば、受け入れられることはあり得ない。家族の間で恋愛感情を持つなど、普通は思いも寄らないだろう。むしろ考えてはならないことで、禁忌の代表格でもある。誰でも分かっていることだ。しかし分かってはいても、彼は思いを抑えられなくなった。長い長い間押さえ付けて育ってきたものが、昨夜爆発した。爆発のきっかけなどない。今まで我慢してきたものだ。いつ爆発してもおかしくなかった。ただ昨日であった、それだけだ。
 真実は携帯電話の中に保存してある写真を開いて見た。姉と二人で一緒に撮影した写真が何枚かある。一緒に住んでいるから写真を撮ることなど少ないが、どこかへ出掛けた時などに気分が乗ると二人で顔を寄せ合って携帯電話で写真を撮った。姉は美しかった。幼い頃から真実の自慢の姉だった。大人になって、より美しくなった。真実は、姉をどのような男にも渡したくはなかった。姉が結婚してしまったらどうしようと、まだ思春期の頃から思うことが多かったものだ。
 好きだと言ってしまえば、楽になるかと思っていた。だが真実は自分が間違っていたことに気付いた。姉を苦しめた自分という存在が苦しくなった。好きだと口にしたら、さらに好きだと思う気持ちが募った。行き場のない激情を、どこへぶつければいいのかわからない。真実は軽薄な男ではなかったので、他の女性と付き合うなどしてごまかすことはできない性格だった。これから毎日毎日、姉と顔を合わせながら笑って過ごす苦しみを、姉の苦しみと合わせて想像した。
 余りの恐ろしさに、身体が震えた。冬の朝の凍てつく寒さよりも冷たく、心も身体も震えた。

 

 しばらくごろごろと無意味な時間を過ごすのに飽き、真実はパジャマにカーディガンを羽織った姿で一階に降りた。日曜日だというのに、父は出勤していた。会社でトラブルがあり、つい先ほど出掛けて行ったと母が言う。当の母はテレビを見ながらお茶を飲んでいた。大学生の真実は冬休みなので、曜日など関係なく寝坊していたのだ。
「毎日よく寝たわねえ。さっさと朝ご飯食べなさい。もう十時よ」
母に嫌味たらしく言われ、真実は食卓へ向かい「はい」と小さく呟き、自ら味噌汁とご飯をよそって食べた。あっという間に食べ終わり食器を台所へ運んだら、背後から「自分で洗いなさいよ」と小うるさい声が響く。母の機嫌が悪いのか、今日は大人しくしておいた方が良いらしいと、自分で茶わんや皿を洗った。
 濡れた手を拭きつつ、結子がいないことを不審に感じる。まだ眠っているのだろうか。昨夜の一件があるので、真実は何となく後ろめたかった。
「姉ちゃんはまだ寝てるの」
平静を装って母に聞いてみると、そういえばそうね、と言った様子で母は彼に言い付けた。
「毎日仕事で疲れてるんでしょ。ちょっとお姉ちゃんの様子見てきてちょうだい」
「え、俺がかよ」
母は怪訝な顔をして息子を見た。
「別にいいでしょ、寝坊してる時はいつも真実が起こしに行ってるじゃないの」
「まあ、そうだけど。じゃあ見てくるよ」
「昨日あんたが寒いところを連れ回して風邪でも引いたんじゃないの」
母の何気ない言葉にひやりとする。これが日常になるのかと真実は瞬間的に悟り、これからは本格的な精神力の勝負だと思わざるを得なかった。
「そんなことねえよ。姉ちゃんが行きたいってところに俺が付き合わされただけだよ」
 さっさと居間を去って二階へ上がり、姉と自分の部屋が向かい合う位置に立ち止まった。可愛らしい木製の文字で『ゆいこ』と書かれたプレートがかかっている。ゆいこ、結子、姉の名だ。向かいを見ると、お揃いの文字で『まさみ』というプレートがかかっている。まさみ、真実、これは弟の名。数年前の家族旅行先で買った物で、結子が無理矢理に真実の部屋のドアにもぶら下げた。当時はまだ高校生で真実は照れくさかったが、家の中の物でもあるし、もう慣れてしまった。お揃いの文字の自室用表札。家族であること、きょうだいであることを、ありありと証明している気がする。昨夜を境に、「きょうだい揃いの物」がとても重苦しい物になってしまったことに気付く。
 いつもの真実なら、何も考えずにこのドアをノックするだろう。しかし今朝は思うように手が動かず、たっぷり二分は廊下に立っていた。ただ立っているだけでは埒があかないので、深呼吸をし思い切ってドアを叩いた。
「はあい」
結子の声が中から聞こえたので、真実は「俺」と声をかけた。ドアを勝手に開くことはできなかった。一瞬の間を置いて、再び中から声が聞こえた。
「入っていいよ」
真実は内心、入っていいのかと複雑な気持ちになったが、言われるままにドアを開いた。見慣れた部屋の中で、結子は既に着替えてベッドをばさばさと直していたところだった。今まで結子はパジャマ姿だろうと下着姿だろうと、露でだらしない格好であっても平気で家の中を歩き回っていた。親に叱られても、弟に文句を言われても、「家でリラックスできずにどこでするのよ」と言うばかりだった。それなのに今朝は、パジャマ姿どころか既に部屋で服に着替えている。これはやはり自分に対するガードだろうかと、真実は感じ取った。
「お母さんから、姉ちゃん起きてくるのが遅いから見てこいって言われた」
「ああそう、ごめん。すぐ行くから」
「昨日俺が寒いところ連れ回して風邪引いたんじゃないかって言われたよ」
「風邪なんか引いてないよ。連れ回したのは私だから、あんたは気にしなくていいじゃないの」
結子は真実の顔をあまり見ようとしなかった。真実が話しかけようとしても、見えない壁が感じられた。
「姉ちゃん」
「なによ」
「あのさ、怒ってる、かな」
「別に何も」
取りつく島もない。昨夜のことには徹底的に触れずにいようということだろうか。
「ほら、ご飯食べに行くから。あんたも出てよ」
肩をとんと押され、部屋を追い出される。とん、と身体を押される。たったこれだけのことなのに、昨日と今日とでは感触が違う。良くも悪くも違ってしまった。

 

 結子はあっさりと背を向けて、階段へと去って行く。小柄な後ろ姿を見下ろし、真実は不安でたまらなかった。自分は姉を失ったのだろうかと。それとも、何か他に道はあるのだろうかと。
 結子に押された肩が、真実にはじわりと熱く感じた。無意識に肩に触ってみる。
 どんなに不安を感じつつも、姉を恋い慕う気持ちが岩のごとく微動だにしないことに気付き、真実は自分自身が得体の知れない恐ろしさを孕んだ存在であると思い知らされていた。