ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】3 永遠に終わらない冬

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 年末の仕事納めの一日、結子は特に変わったこともなく過ごした。結子の会社は社員五十名程度の小さな事務所で、高齢者や心身障がい者の家庭に介護ヘルパーを派遣する企業の支店だった。社員の男女比は半々で雰囲気も良く、結子にとっては居心地の良い職場である。介護を必要とする人は盆暮れ正月関係なく存在しているが、今年はヘルパー側の休暇と各々の家庭との都合がうまく合致し、慌てることもなくほっとした仕事納めができそうだった。こんなことは少ないなと、支店長は不思議がっていた。


 その日は仕事が終わった後に、忘年会が予定されていた。毎晩酒を飲みたいほど酒好きでは結子だが、飲めないわけでもない。何より社員皆で騒ぐのも、たまには良いものだ。予定が立った当初から、そこそこ楽しみにしていた。終業の午後五時半を過ぎると、仕事を片付けた社員が少しずつ引いていく。忘年会は午後七時からなので、早く退出した者は買い物をしたり本屋に立ち寄ったりお茶を飲んだり、適当に時間を潰してから会場に向かうことになっている。
 結子が適当な時刻にタイムカードを押して会社の外へ出ると、暗い寒空の下で意外な人物が待っていた。
「真実、よね」
会社の入口から容易に見える場所に、真実が立っている。黒いダウンコートを着込み、ジーンズに赤いスニーカーをはいた普段の姿だった。
「何してるのよ、こんな寒い所で」
「姉ちゃんを待ってた。それくらいわかるだろ、こんな所にいるんだから」
確かに結子に用がなければ、彼が結子の会社の前で立ちすくんでいることはないだろう。結子は言われてみればそうか、と思いつつ口を開いた。
「私これから忘年会なのよ。何かあるなら家に帰ってからにして。それとも緊急事態なの」
真実は首を横に振って、俯いた。
「急ぎじゃないなら家で。でも私、帰りは遅くなるからね。お父さんとお母さんにも言ってあるから」
「やめろよ、忘年会」
「え」
何を言われているのかわからず、結子は一瞬眉をひそめた。
「行くのやめろよ、忘年会なんか」
「あんた、何を言ってるの。一度行くって言ったものをキャンセルするなんてみっともないでしょ。それにどうしてやめなくちゃいけないのよ」
真実は怒った顔をして、結子を睨み付ける。
「だって会社の人と酒飲むんだろ。男だっているだろ」
結子は真実の言わんとしていることが飲み込めた。結子が男性のいる場所で酒を飲むことが気に入らないのだろう。今だけでなく、長らくそう思っていたのかもしれない。口に出さなかっただけで。
「忘年会じゃなくたって、会社の仲間と飲み会に行くことくらい時々あるじゃない」
「でも、やめろよ。何とでも言い訳なんかできるだろ」
真実の少し暗い瞳に、結子はふと恐ろしさが甦った。この弟に好きだと言われ、抱きしめられた夜の恐怖。恐怖と、もう一つの何か。今まで、真実が会社の前で待つなどという行動に出たことはない。あの日思いの丈を結子にぶつけて以来、真実は少しおかしくなっているのではないかと結子は感じた。同時に、会社の誰かに見られていないだろうかと無意識に周囲を見回す。早く弟を追い返さなければ、と。
 「とにかく真実、今日は家に、」
結子が言いかけたところに、後ろから「森山さん、どうかしたの」と女性の声が聞こえた。結子が振り返ると、社内でも仲の良い女性社員が少し驚いた顔で結子を見ていた。
「あ、安藤さん」
心配そうな表情で、安藤という女性は首を傾げた。何か不審なことがあったと感じたのだろう。
「安藤さん、これ、私の弟なの。ちょっと用があってここに」
「へえ、森山さん、弟くんがいるのね。初めまして」
安藤がにこやかな顔に戻り、真実に会釈してくれる。真実は深々とお辞儀をして、礼儀正しく挨拶した。
「弟の真実です。いつも姉がお世話になってます」
「かわいいね、学生さんかな」
安藤が結子に言うと、結子は頷いた。
「うん、大学三年生なの」
「そうなの。二人ともきょうだいなのに、全く似てないのね。実は若い彼氏かと思っちゃった」
舌をぺろりと出して安藤が笑うので、結子はどきりとする。そう、似ていないのだ。周囲から見ると、本当に他人に見える。以前はそれを利用して面白がっていたが、今は似ていないことがどうにも辛くやりにくい。
「よく言われるのよ、全然似てないって。でも間違いなく血の繋がった姉と弟だからね」
何となく声が大きくなる。弟にも言い聞かせるつもりで結子の声は強くなったのかもしれない。
 すると不意に、真実が口を挟んだ。
「実は、母の具合が悪くて。忘年会だって聞いてたから、その前に姉を迎えに来たんです。姉の携帯が繋がらなくて」
安藤と結子は同時に「えっ」と叫んだ。
「森山さん、お母様の具合が悪いの。入院とか」
安藤は急に声音を変えて、不安そうに言った。
「いや、まだ入院までは。でも一応、姉に帰ってきてもらおうかと思って」
「そうね、あとは忘年会だけだもの。森山さん、早く帰ってあげた方がいいわ」
結子は「嘘だ」と感じた。真実は嘘をついている。母に仮病を押し付けて、結子の忘年会出席を妨害しようとしているのだ。
「ねえ森山さん、お母様の看病してあげて。私、支店長にも言っておくから、すぐ帰って大丈夫だよ」
安藤は心底心配している様子で、結子の肩を叩く。
「で、でも。そんなに大したことないんじゃないかな。当日にキャンセルなんて」
「何言ってるのよ、仕事で抜けられないならともかく、たかが忘年会じゃない。休んで構わないわよ」
安藤は会社の方へ戻ろうとしている。このまま支店長や幹事役に伝えてくれそうな雰囲気だ。そこへだめ押しに、真実が頭を下げた。
「ありがとうございます。お世話になります。本当にすみません」
「いいのよ、そんなこと気にしないで。困った時はお互い様。ね、すぐ帰って。お母様、お大事にね」
結子はもうどうにもならないと諦め、安藤に礼を言うしかなかった。
「ごめんね、安藤さん。次に会うの年明けだけど、その前にまたメールするから」
「気にしないでいいってば。じゃあね、気を付けて」
「ごめんなさい、ありがとう」

 

 安藤が手を振りながら、再び会社へと戻って行く。どうしてこんなことにと溜め息をついた結子の腕を掴み、真実は足早に歩き始めた。
「痛い、離してよ」
真実は何も言わず、手の力も緩めない。結子がついて行けない速さではなくても、腹立たしく情けなく、何とかして勝手な弟に一発食らわせたかった。
「離してってば、馬鹿」
「嫌だ、絶対に離さねえ」
「やめてよもう。離せっ」
「絶対に嫌だ。離さねえよ。今離したら、姉ちゃんは逃げる」
力では到底適うわけもない。結子は自由になる片方の手で、バッグを振り回して背後から真実の肩や頭を殴った。殴っても真実はびくともしない。
「離してよ、痴漢だって大声出すわよ」
その一言で、周囲の人々が少しだけこちらを見て通り過ぎて行く。
「姉ちゃんこそ馬鹿じゃねえのか。お互いに身分証明書見せたら家族だってわかるだろ。痴漢も何もあるか、この人騒がせ」
 散々言い争いをしながらどれほど夜の道端を連れ歩かれたか、気付いたら会社の最寄り駅から二区も離れた駅に来ていた。降りたことのない駅なので、駅前の勝手もわからない。結子はブーツをはいた脚がひどく痛んだ。
「脚が痛い。どこかに座らせてよ」
真実は立ち止まり、振り向いて結子を見下ろした。
「バッグ、寄越せよ」
結子の腕は相変わらず掴んだままだ。もう片方の手のひらを出して言う。
「どうして」
「女のバッグは結構重いだろ。俺が持つ」
しぶしぶと結子はバッグを渡した。真実は再び結子の腕を引いて、駅前の小奇麗なカフェに入った。ドアをくぐってすぐ、結子にコートを脱ぐよう言った。結子が言われた通りコートを脱ぐと、真実が受け取りそのまま二人で席につく。
「バッグとコート押さえられたら逃げられねえだろ。財布も定期も携帯もどちらかに入ってる」
結子は耳を疑った。弟の親切の裏側を悟り、目を丸くする。
「真実、あんたって実は凄く卑怯な男なんじゃないでしょうね」
「なんでだよ。疲れたって言ってる女のバッグとコート持ってやるくらい、男として当然だろ」
「でもそれ、私が逃げないためでしょ」
「今はな。普段なら心遣いの域だけど」
 真実はポケットから煙草を取り出した。少し曲がった一本に火をつける。見るからに不機嫌そうな顔で火をつける仕草を、結子はじっと見ていた。目を伏せる弟の睫毛が意外と長いことに、結子は今さらのように気付く。真実は二十歳になった頃から煙草を吸い始めた。決して良い習慣とは言えないが、家の中では吸わないし、吸っている本数も余り多くはない。両親は真実が煙草を吸っているということは知っていても、目の前で吸われないので何も言わない。家族の中で堂々と煙草を吸う姿を見せるのは、姉の結子と二人で出掛けた場合だけのようだ。
「もう疲れたから逃げやしないわよ。だいたい今さら忘年会にも行けやしない」
「行けないようにしたのは俺だからな」
「そうよ。何なのよあれは。失礼でしょ。忘年会だって大事な仕事の一つでもあるんだからね」
結子が顔を険しくすると、真実は下を向いて「ごめん」と素直に謝った。
「謝るくらいなら最初からしないでよ」
呆気無く謝られ少々拍子抜けしながらも、結子は怒った顔を緩めず続けた。
「安藤さんにも迷惑かけちゃったし、支店長とか色んな人にお母さんどうですかって聞かれるわ。こういう嘘って凄く嫌」
「じゃあ、本当のことを言えばいい」
「何よ、本当のことって」
伏せていた真実のまぶたが上がり、結子を見る。
「弟から、他の男の前で酒を飲むような忘年会には出るなって言われて困ってた、ってな」
「そ、そんなこと言ったって意味不明よ。こいつ馬鹿かって思われる。親が病気だって言った方がよほどわかりやすいわ」
「ほら、だからそう言ってやったじゃねえか、俺が」
結子は頭がくらくらしてきた。結局、自分は弟の言う通りになってしまったのだ。そもそも弟に忘年会に出ることを妨げられるなどという非常識なことを、どうやって正直に説明せよというのか。
 運ばれてきたコーヒーを間に挟み、姉弟は俯き黙りこくっていた。姉は弟の真意がわからず、弟は姉に少し申し訳なく思っていた。そして姉は忘年会に出ずに弟と二人でいる方が楽であることを感じ、弟は自分の取った感情的な行動を悔いつつも心のどこかで満足していた。
「どうしてくれるのよ。忘年会に出るって言ってきちゃったんだから、家に帰ったってご飯もない。帰ってきたらあんたと一緒でおまけに私は酒くさくない。何だかおかしいわよ」
真実は煙草を揉み消して、コーヒーを一口飲んだ。無表情にも見えたし、怒っているようにも見えた。
「なんでそんな小さいこと気にするの」
コーヒーカップをソーサーに置くかちゃりという音がする。店内は人々の話す声で満ちているのに、結子は静寂の中にいる気持ちがした。静寂の中に、カップの音、煙草の箱を探る音、ライターの音、弟の低い声だけが響く。
「小さいことかしら」
「小さいよ。どうにでもなることばかりだ。腹が減ったら適当に外食すればいい。酒くさくしたかったら一杯飲んで帰ればいい。俺なら駅で会ったと言えばいい。どれもこれも一瞬で解決することばかりだろ」
真実の言う通りである。結子は黙っているしかなかった。
「さっきの安藤さんや会社の人には明日にでもメールして、母は全く心配なかったって謝ればいい。足りなければ正月明けにもう一度そう言って礼を言えばいい。嘘かどうかはこっちの問題だ。向こうが納得してくれればいいんだろ。これも一瞬で解決だ」
「あんた頭いいのね」
「誰でもわかることだろ。姉ちゃんが混乱してるだけじゃねえか」
言われてみれば、何もかも些末なことだ。この二人にとっては、全く些末なことだ。最も大きな問題が姉弟の間に鎮座している限り、全てのことは小さい。
 二人はそのカフェで、ピザ一枚を分けて食べ、ビールを一杯ずつ飲んだ。これで食事と酒の問題は片付いた。忘年会が終わるには少々早いが、疲れたから一次会だけで帰ってきたと言えばおかしくも何ともない。結子は考えながら会計を済ませ、二人で店を出た。

 

 自宅へ向かう電車に乗るためにホームの階段を上がって行くと、ちょうど良く電車が入ってきたところだった。結子が反射的に走って乗車すると、何も言わずに真実も乗り込む。電車は空いていた。ドアが閉まって発車した途端、真実が言った。
「これ、家と反対方向だよ」
「え、そうなの」
普段使わない駅なので、結子は気付かなかった。
「そうだよ。俺はすぐにわかったけどね」
真実は悠々とシートに腰掛けた。姉に向かって「座れよ」と隣を指差す。
「わかってたならどうして教えてくれないのよ。ドアが閉まる前に降りることができたのに」
「座んなよ、いいから」
「何であんた、そんなに偉そうなのよ。何なのよさっきから」
「じゃあ座ってください」
真実はシートを手のひらで示して会釈した。空いた電車の中で喧嘩をしていても人に見られて恥ずかしい。結子は黙って真実の隣に座った。
「反対方向に乗って、どこに行くのよ」
結子がたずねると、真実は「別に」と首を振る。
「忘年会だったんだから、もう少し帰る時間が遅い方がいいだろ」
電車のガタンゴトンという騒音で、弟の低い声が耳に入らない。結子は「なに、聞こえない」と言って、真実の顔に耳を近付けた。
「聞こえないのか」
「なによ、もうちょっと大きな声で」
結子が半ば怒鳴るように言うと、真実は姉の耳に口を寄せ、腹の底から声を響かせて言った。
「好きだ」
電車がガクリと揺れた衝撃で、真実の唇が姉の耳に触れた。耳に触れた唇はすぐには離れず、もう一度「好きだ」と言った。


 結子は身を硬くした。動けなかった。問題は、何も解決していなかった。誰も自分を助けてくれる人はいなかった。息を吐いてゆっくり首を動かすと、真実が静かな瞳で結子を見下ろしていた。長い睫毛の奥から底のない泉かと思うほどに深みのある視線が流れて来る。黒い瞳に吸い込まれる気がした。何故この子はこんなに静かな目でいられるのだろう、何故この子はこんなに冷静でいられるのだろう。結子には不可解だった。
 彼の瞳を見つめてはならないと、結子の胸に警鐘が鳴る。弟から顔を逸らし、黙って電車に揺られていた。何も目に入らなかった。耳もとに直接吹き込まれた「好きだ」という言葉だけが、ただ結子の頭を駆け巡るだけだった。