ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】5 永遠に終わらない冬

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 正月は家族四人で近くの神社へ初詣に行くことが、森山家の年中行事になっていた。元旦は毎年天候に恵まれることが多く、今年も少々雲はあるが良い天気だった。大きな神社は大混雑で大変だからと近所の神社へ出向くのだが、やはり相当の人混みだった。幾らかの待ち時間を経てまずは両親が、次に結子と真実が賽銭を入れて手を合わせる。
 真実は何も願うことがなかった。願うことが多すぎる。春が来れば大学四年生、教育学部に在籍する真実には厳しい教育実習が待っている。真実の志望は、一般の小中学校内にある特別学級の先生になることだった。自分自身が子どもの頃、障がい者である生徒達を優しく愛情を持って守り続けていた先生がいたことが今でも忘れられない。小さな教室で数名の生徒を、一人の大きな大きな先生がいつでも守っている。健常者である生徒たちは先生の愛情ある姿を見ることによって、特別学級の生徒とも垣根なく接し合うことができていたのだ。あんなに素晴らしい人になれるとは思えないけれど、真実は心の中で若いうちから目標を掲げていた。
 手を合わせて目を閉じつつ、不安が襲って来る。教育実習への不安、教員免許の試験への不安、合格したとしても今度は採用先の不安、何もかも未来は不安に溢れている。
 目を開いてちらりと隣を見ると、姉も目を開いたところだった。結子の美しい横顔を見て、真実はふと思いう。自分は外道だ。誰が知らずとも、自分と姉は知っている。外道と言えば仏教用語か。宗教など知識のない真実だが、外道という言葉は知っていた。「真実(しんじつ)の道から外れた道を信ずる者」のことだろう。ならば自分は外道に違いない。自らの名にも外れている。
 結子に「ほら、行くわよ」と急かされ、両親が待つ場所へ向かう。初詣の行列はまだまだ長く続いている。この中に、外道でない人が一体どれだけいるというのか。外道でない者など、一人もいない。きっといない。皆、何かを隠している。邪な心を隠している。
 何も願うことなどできなかった。外道の願いなど、どこの神様が聞き入れてくれるのか。だから世の中はうまくいかないのだ。皆が外道だから、皆が自分勝手に自分の成功を願うから、皆が好き放題に生きているから、神も仏も祈りなど聞いてはくれまい。真実は、姉の結子が何を祈ったのか、何を願ったのか、聞いてみたかった。結子の斜め後ろを歩きながら真実は、小さなダイヤモンドのピアスが光る姉の耳もとを見るともなしに見ていた。見つめていたくて、見ていた。

 

 初詣の帰り道は、ファミリーレストランでお茶とケーキを囲んでお喋りするのが、これもまた一家の恒例となっていた。四人揃って、アルコールよりも甘い物を好む傾向にあった。特に結子は若い女性だけあって、ケーキには目がない。幼い頃はよくケーキの取り合いをして喧嘩したものだった。大人になった今は、弟の方が譲歩して姉にケーキを分けてやるようになった。
「私、チーズスフレと苺のタルトのどちらも食べたいのよ。真実、どちらか取って半分分けて」
姉の要求は毎年どんどん増大していく。以前は一口分ければ満足していたのに、近年は真実のオーダーしたケーキの半分は奪い取られる運命となっていた。
「いっそのこと一人で二つとも頼んだら」
「恥ずかしいじゃないの、女がケーキ二皿も」
結子が睨みをきかせても、真実は怖くも何ともない。可愛いと思う程度だ。可愛いというだけだったら、これほど悩むことはなかっただろうに。
「同じことだと思うけど。どうせ俺が頼んでも殆ど食われちまうんだろ」
「うるさいな。じゃあ真実はチーズ、私は苺」
父はチョコレートケーキ、母はショートケーキとメニューが決まり、ウェイトレスにオーダーする。余りにも平和な時間が流れるので、真実は自らの澱んだ腹の底がいつの間にか綺麗になっている錯角に陥った。両親の前で、昔の通りに仲の良いきょうだいに戻れたような心持ちがしていた。
 話題はもっぱら真実の今後の進路に偏っていた。真実以外の家族はいずれも教員免許を取得する学部を卒業しなかったので、真実にとっては特に有意義な議論にはならない。かろうじて結子が福祉関係の会社に勤めていることが、接点になるくらいだろうか。結子は「障がい児施設のボランティアに行け」と言うが、今後なかなか時間はなさそうだ。一年生や二年生の頃なら時間があったが、当時は何をどうすれば良いのかわからず、ぼんやりとアルバイトなどしている間に時間が過ぎてしまった。そして三年生も終わりに近付くと、もう教育実習の準備が始まりつつある。冬の後期試験が終わった後、少しでもボランティアに行かれるだけのゆとりがあるだろうか。真実は今さらのように後悔していた。障がいのある児童を相手に教諭になろうというのに、当の障がい児としっかり向き合った経験がないとは恥ずかしい。
「大変な仕事だと思うわよ。自分の世話は当然できた上で、人の世話を献身的にする仕事なんだから」
母が心配そうに言う。
「真実ってば、自分が末っ子で世話されるばっかりで、そんな仕事が勤まるのかしら」
耳に痛い言葉だが、真実はその通りだと思うしかなかった。人の世話などしたことがあっただろうか。常に自分のことで精一杯で、自分勝手なことばかりしてきた自分が。父は「それは本人の根性の問題だろう」と母にけしかけ、夫婦で言い争いが始まっている。娘と息子は蚊屋の外に追い出されてしまった。
 「障がい児施設は行っておくべきだと思うよ。大人の障がい者でもいいし。とにかく接し方の一つも知らないんじゃ話にならないしね。先生の資格さえあればいいってものでもないんだから。大学にボランティア募集の貼り紙とかあるでしょ。私も会社で少し探してみようか」
結子は苺のタルトを三分の一ほど食べて、まだ手をつけていなかった真実のチーズスフレを勝手に半分以上切り取り持ち去ろうとする。
「おい、いくら何でもピンはねし過ぎだろ」
「ケチくさいわね、あんた。じゃあ、これあげるから」
タルトの上の苺を一個だけフォークに差し、結子は真実の口元に突き付けた。真実が少し驚いて黙っていると、結子は顔をしかめて言う。
「何よ、まー。ほら、口開けなさいよ」
『まー』とは、まさみのことである。小さな頃、姉は真実のことを『まー』『まーくん』と呼んでいた。真実が中学生になった頃、本人が嫌がり始めたので『まさみ』と呼ぶようになったが、結子は今でも時々ふざけて『まー』と呼ぶことがある。
 ともかく、いい大人になった姉と弟のすることとも思えないが、真実は素直に口を開いて姉のフォークから苺を食べた。何とも感じていない様子で、結子はそのフォークを使って再びケーキを食べ始める。そう、何も感じないのが家族だ。友人同士ですら、この程度のことはする。食べ物をシェアするのが嫌いではないという性格の人以外なら、普通にする。真実は、つくづく自分が一般道から踏み外したのだと実感した。同時に姉の気持ちがわからなかった。わかりたいと願うこともあったが、わからない方がきっと幸せだろうとも予感していた。姉の気持ちを理解したからと言って、いずれに転んでも良い事はなかろう。
 酸味の強い苺を飲み込んで、真実は姉に半分以上奪われ廃虚となったチーズスフレを食べた。酸っぱい苺の後で、それはとても舌に甘く感じた。
「姉ちゃんの会社に、ボランティアの情報とかもあるのかな」
結子は「うん」と頷きコーヒーを飲み干した。
「大学にも沢山あるんじゃないかしらね。会社でも見ておくわ。どれくらいあるかわからないけど」
「ありがと。俺も自分で探すけど、良さそうなのあったらコピーしといてよ」
姉と弟が一応は建設的な会話をしている間、両親の言い争いの話題は遥か彼方へ飛び立ち、やれ物を捨てないだのやれ靴を買い過ぎだのと関係のない喧嘩になっていた。

 

 そのまま帰宅できるのかと思っていたら、結子は駅前にあるファッションビルの初売りセールに行くと言う。物好きなと呆れていると、真実は否応なしに荷物持ちとして連れて行かれた。思い起こしてみれば、初売りや夏のバーゲンなどがあれば荷物持ちをさせられていた気がする。したがって、真実は女の買い物に慣れていた。以前付き合っていた恋人にも、買い物に付き合ってくれるなんて優しいと良く言われていた。女の買い物は長い。そしてくだらない。重い荷物だけ持たされて、男には何の得もない。余程の我慢強い男か、駆けにでも負けたか、或いは相手の女に心底惚れ込んでいるか、後で何かしら嬉しいお礼があるか。何によらず、女の買い物する姿が好きだという男は少ないと思われる。
 真実は「ここで待て」と指示された場所で結子のコートとバッグを持って立ち尽くし、結子が移動すれば携帯電話がかかってくるので自分も移動する。初売りのビルは通勤電車並みの人出で、買い物に何の興味もない真実にとっては非常なる苦痛であった。結局、結子は店内で移動に移動を重ねた結果、ブランド物の福袋を二つと単品で新しいコートを買っていた。合計三つの紙袋は、全て真実が持たされた。結子は悪びれた様子もない。弟はこの程度をして当たり前だと言いたいのだろう。
 帰り道、荷物を持った礼にお茶をおごってやると結子は言う。場所はどこでもいいから、真実はまともに息のできる場所でひと休みしたかった。自宅近くの駅周辺はどの店も混んでいたので、少し外れた道にある古風な珈琲店に入った。父が好んでいる店で、二人も良く連れて来られた店だった。
「なによ。若いくせにぐったり疲れて。そんなんじゃ、教育実習なんか耐えられやしないわよ」
結子は口を尖らせて言う。
「あのなあ、自分のための買い物で飛び回るならいいよ。だけど俺は女王様の荷物持ちだぜ。疲れるだろ普通」
「女の買い物に慣れておいて損はないわよ。点数上がるんだから」
「わかってるよ。姉ちゃんで無理矢理慣らされてるから、昔の彼女にも喜ばれたよ」
「私が付き合った男なんか、誰も買い物に付き合ってくれたりしなかったわ。どいつもこいつも根性無しね」
「わがままなんだよ、姉ちゃんが。その調子じゃあ一生独身だよ。結婚してもすぐ離婚だ」
 今までと同様に仲の良い姉弟の会話を繰り広げる。しかしその心は複雑だ。真実は、姉に気持ちを伝えた時から、あからさまに避けられることを想像していた。だがそれは最初の三日くらいで、徐々に姉の態度は軟化し、むしろ以前よりも立ち位置が近くなった気分がした。その真意を考えてみる。
 私は意識していない、だからこうして今まで通りにできる、お前もとっとと目を覚ませ、と言ったところだろうか。
 真実は熱いコーヒーを啜り、舌を少し火傷した。ぴりぴりと痛む舌先を鬱陶しく感じながら、コーヒーのカップロイヤルコペンハーゲンのものだと気付く。結子のミルクティーカップはジノリだと気付く。薄暗くクラシックな店内で、小さくかかるピアノのBGMがショパンであると気付く。目の前で結子が操作している携帯電話がブルーであることに気付く。結子の爪は綺麗に切り揃えられマニキュアの一つも付けていないことに気付く。ネイルアートが流行っている時代なのに、それを嫌ってきちんと爪を切っている結子の指先を愛している自分に、真実は気付く。
「あんたさ」
携帯電話の画面を見ながら、結子は呟いた。
「彼女とかいないの」
「いない」
つまらない牽制だ。真実は心の中で少し笑う。彼女でも作って、この前のことは水に流せとでも言いたいのだろう。
「作らないの、あんたもてるんでしょ」
「恋人ってさ、作るって表現で正しいのかな。好きな女を適当に作り上げられるほど俺は器用じゃないよ」
「堅物ね、まだ大学生のくせに」
「彼女とか彼氏とかを『作る』っていう表現が納得できないだけだよ。意味がわからない。好きになるから好きなんだろ」
「じゃあ誰か好きな人、見つけてみれば」
「基本的に『作る』と余り変わらないじゃないか」
本当に下手な牽制だ。結子は勉強はできるかもしれないが、頭はあまり良くないらしい。姉に向かって失礼だが、真実はそう思った。頭が悪いというよりも、男女の駆け引きはきっと下手だろう。
 結子の顔から少し視線をずらしたら、片方のピアスがなくなっている。真実が「ピアス落としたのか」と訊ねたら、結子は驚いて両手で耳を触った。右側のピアスが消えていた。
「どうしよう、落としたんだ、私。さっき必死で洋服の山、ひっくり返してたから」
慌てる結子に、真実は言った。
「じゃあ見つかる確率は殆どないな。大事なものなのか。昔の彼氏にでももらったのかよ」
「違うわよ、自分で買ったのよ。彼氏なんかいないわよ。昔の彼氏にもらった物なんか全部捨てたわよ」
「寂しい女」
「うるさいわね、馬鹿」
がっくりと肩を落とす結子が、真実は少し可哀想になってきた。
「俺が新しいの買ってやるよ。あんまり高いのは無理だけど」
溜め息をつきながら、結子は首を振る。
「いいわよ。弟にピアス買ってもらうなんて格好悪い」
「深く考えなくていいよ、ボランティアのこと教えてくれたお礼。明日にでもデパート行って買おうぜ。得したとでも思っとけ」

 

 珈琲店を出て、暗くなった道を自宅へ歩く。荷物持ちの疲れは取れていた。空を見ると、黒い夜空に星が綺麗だった。昼に神社で結子のピアスの輝きを見た時、太陽の光を反射してきらきらしていたなと思い出す。
「ピアスがいいんだろ」
少し前を歩いていた真実は、結子に向かって訊ねた。
「え、どうして」
立ち止まり振り向いて、結子の顔をじっと見下ろす。
「それとも指輪の方がいいか」
結子が息を呑むのがわかった。真実はそんな姉を一瞥し、くるりと前を向いてゆっくりと歩き出す。結子の足音が聞こえない。再び真実が振り返って見ると、彼女は目を見開いたまま立ち尽くしている。
「冗談だよ」
真実は結子に近付き、その背中に手を添えて微かに押した。結子はようやく歩き始める。何も言わずに、俯き加減で歩く。
 結子の背に添えた手のひらを、真実はずっと離すことはなかった。小さな背中を抱くように、静かな夜道を自宅まで歩き続けた。