ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】7 永遠に終わらない冬

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 夕焼けは遠ざかりますます暗く冷え込んできたというのに、結子はブランコから立ち上がろうとしなかった。姉が動く気配が全く感じられないために、真実もブランコに掴まってしゃがみ込んだままだった。
 間近にある結子の小さな顔は、涙に濡れていた。いつの間にか彼女は泣いていた。泣いたからと言って、真実にどうしてやることもできない。真実は黙って姉の目の前にいるだけだった。ポケットからハンカチを出して頬をそっと拭いてやったが、再び涙が溢れてくるので仕方がないと諦めた。
 目の前で愛する女性が泣いている時、男がどのような行動を取るか。言わずと知れたことだ。しかし真実の場合は、相手が実の姉である。泣いている姉を弟の立場で「よしよし」と抱きしめてやることもできないわけではない。できないわけではないが、抱きしめたらさらにわんわんと泣き出しそうで、収集がつかなくなることを恐れた。結子は感情に流されて自分自身を見失う。そして正直だ。真実には既に、結子の心の一部が見えていた。結子の混乱の中にほんのわずかだけ隠された、真実と同じ波長が伝わってくる。結子自身が「それ」を持て余し、無視することも捨てることもできずに苦しみ、何をどうすれば良いのかどんな行動を取れば良いのかわからなくなっていることが伝わってくる。
「姉ちゃん」
結子が少しだけ顔を上げた。真実の胸から首あたりを見ている。
「ごめんな。俺のせいで」
指輪のはまった小さな手を、真実は両手で包み込んだ。冷えきった手と手が重なり合い、少しずつ温もりが戻ってくる。
「俺が姉ちゃんを泣かせてるんだよな」
結子はこくりと頷き、すぐに首を横に振った。「はい」と「いいえ」が共存しているらしい。
「違うのか、俺のせいじゃないのか」
「わかんない」
そりゃそうだろうと真実は頷いた。自分の思っていることすらわからないのだから、何故涙が出るのかもわかるまい。真実は少し表現を変えて、もう一度謝った。
「俺が変なこと言ったせいで混乱させちゃって、ごめんな」
今度は一度だけ、結子は頷いた。
「指輪、外してもいいよ」
首を横に振る。
「はめたままでいいのか、俺とお揃いで。左の薬指だぞ」
こくりと頷く。真実の気持ちは、どうにも複雑だった。喜んで良いものか、それとも。今さらながら、自らの愚かさに気付く。毎日がこの繰り返しだ。スタート地点から、まだほんの数日しか経過していないというのに。
 真実は姉の指に光る指輪を静かに抜き取り、再びペンダントの形に戻して彼女の首にかけてやった。
「外しておけよ。せめて家に帰る時は」
そして真実自身も指輪を外してペンダントに戻し、首にかけてさらにセーターの中に隠した。これで、二人揃って帰宅しても何一つ目につく部分はない。
「さ、帰ろう。風邪引いちまう」
真実は結子の手を引っ張り、ブランコから立ち上がるよう促した。結子は素直に応じて立ったが、顔は涙に濡れたままだ。
「帰ったらさ、化粧でも落とす振りしてさっさと顔洗えよ。お母さんたちに見られる前に」
「うん」
「大丈夫か」
「多分」
「じゃあ、帰ろう」
 結子の肩を抱き、真実は静かに力を入れた。重い足取りで結子は少しずつ歩み始める。辺りはすっかり夜になっていた。誰もいない公園は言い様のない寂しさをしんしんとたたえていた。真実はふと、この公園が世界の行き止まりなのではないかと錯覚する。公園を一歩出たら、大きな真っ黒い穴の中にぽんと落ちるのではないかと思った。錯角は一瞬で、公園の出口の向こうには見慣れた歩道が見えている。あと五分も歩けば自宅に着く距離だ。

 

 突然、結子の歩みが止まった。まだ公園を出てもいない。ブランコを離れてから十歩も進んでいない。
「なんだよ」
暗くなった公園では、街灯の薄いあかりだけが頼りだった。真実は目をこらし、立ち止まる結子の顔を見つめる。結子は再び涙を流し始めた。
「また泣いてるのか」
結子は何も言わない。ただただ涙を流し続ける。
「あんまり遅くなると変に思われるぞ」
真実がポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、もうすぐ夕方の六時になるところだった。まだ夕食には早いが、ちょっとした買い物にしては少し遅い。心に何もやましいことがなければこんな気持ちで時間を気にすることもなかろうにと、真実は苦々しく感じた。結子の涙は止まることがなかった。
「とにかく、ちょっと歩こう。本当に寒いよ、じっとしてたら風邪を引く」
結子の腕をつかみ、真実は歩き出した。結子が嫌がって歩こうとしないのを、無理に引っ張った。それでも動かない。
「わかったって、まだ家には帰らないから。今お母さんに電話するよ、何か言い訳作って」
携帯を取り出し、真実はしばし考え、自宅に電話をかける。コール三回のわずかな間に、不自然でない理由を挙げつらねた。お茶、食事、お酒、映画。何が自然だろうか。姉の買い物に付き合ったことでもらえる何かしらのご褒美としておかしくないものは何だ。
「ああ、もしもし、俺だけど」
真実は電話に出てきた母ののんきな声を聞き、胸が少し痛む。ごめんお母さんと、心の中で母に謝りながら、真実は最も長い時間を取ることのできる理由を組み合わせた。
「うん、姉ちゃんと一緒だよ。あ、今はデパートの近く。あのさ、このまま映画見ようかって話になってさ」
電話の向こうの母は、いつもと同じ調子だった。機嫌も悪くなかった。これが夕食時だったらこうはいかないだろう。娘と息子のために作った夕食を無駄にするのかと責められるところだった。たとえ正月と言えども、母の食事の準備は毎日続いている。
「ちょうど席もあいてるし、姉ちゃんも同じの見たいって言うから」
結子は真実の顔を見上げ、じっとその様子を見ていた。
「晩飯? そうだな、多分遅くなるから食って帰るかも。あ、食ってくよ、姉ちゃんにおごってもらう。今日も荷物持ちしたしさ」
二人で勝手にご馳走でも何でも食べて来いと言う母に、真実は心底ほっとした。母に一言謝って、電話を切る。そして、思いきり深い溜め息をついた。ああ、良かった、何も問いつめられなくて、と。よく考えてみれば問いつめられるような行動は何一つしてはいないけれど、心にやましいものがあるとこうまで疲れるものなのかと真実は再び溜め息をつく。携帯を閉じるパチンという音が、妙に大きく響いた。それほどに、公園は静かだった。
 映画なら所要時間は最低でも二時間は取れて、午後八時まで。さらに外食したとして最大で二時間は見積もることができ、午後十時頃に帰宅。これだけ時間があれば泣きっ面もどうにかなるだろう。帰宅時間を早めるのはいくらでも調節ができる。こんなことのために頭がくるくると回転する自分自身が、真実には不思議だった。俺って簡単に嘘でも何でもつける男だったんだなと、少し空恐ろしい気分にもなった。
「真実、あんたって、嘘がうまいのね」
しゃくりあげながら妙な声で、結子は真実に言った。真実は携帯をポケットにしまう。
「うまくなんかねえよ」
「でも、すらすら嘘ついてた」
「一番長い時間が取れる映画と晩飯の組み合わせにしとけば安心だろ。そんな泣き顔じゃ、すぐには帰れないし」
「誰のせいで泣いてると思ってんのよ!」
結子は握りこぶしを作り、真実の肩をドンと叩いた。
「てっ」
「誰のせいよ! 誰が悪いと思ってんのよ!」
「ちょ、ちょっと、そんな殴らなくても」
結子は両手でがつんがつんと真実の身体に殴りかかる。真実が何を言っても結子は「バカ」だの「アホ」だのと罵るばかりで、全く聞く耳を持たなかった。仕方がないのでそのまま殴られるままにしていたら、結子はじき大人しくなった。
 正月三が日の住宅街は静かで、公園の前を通る人は全くいなかった。どうして誰もいないのだろう。どうして二人でいるところを目撃する知人が誰もいないのだろう。自分の胸で泣きじゃくる結子をぼんやりと眺めながら、真実は結子と関係のないことを考えていた。顔に当たる微かな風が冷たく痛い。首を傾けて空を見上げると、既に星がいくつも見えていた。
 結子はずっと泣いていた。彼女の頭は、真実の心臓の辺りにあった。随分と背が低かったんだなと感じる。それとも自分の背が高いのか。子どもの頃は姉の方がずっと大きかったのに、いつの間に逆転してしまったのだろうかと不思議だった。意識しなければ何とも思わないことが、意識し出すと急に気になってくる。
 真実は自分よりもずっと小さな姉を、そっと控え目に、子どもをあやすような気持ちで抱きしめた。自分で無理矢理に「子どもをあやしているのだ」という意識に切り替えなければ、本気で抱きしめてしまいそうだった。

 

 結子の泣きはらした顔では明るい場所に出向くわけにもいかず、二人は夜の道をとぼとぼと歩いた。幼い頃から歩き慣れた道を通り、家から徐々に遠ざかっていく。真実はもう、家に帰るのが嫌だった。姉と同じ家に帰らねばならないことが、ひどく苦痛だった。好きな人と同じ家に帰ることは本来ならば嬉しいことなのに、真実が恋をした相手は実の姉だ。苦しくてどうしようもなかった。
「ごめんな」
謝るくらいしか真実にできることはなく、しかし謝ったからといって姉を好きだと思う気持ちがなくなるわけもなく、どうすればこの苦しみから逃れられるのだろうと考えたりした。考えても、何も良いアイディアは出てこない。
「私も、ごめん」
結子がふいに謝ってきたので、真実は驚いた。先程はあんなに泣きながら怒っていたのに、と。
「なんで姉ちゃんが謝るんだよ」
「私も悪かったと思ったから」
「何が悪かったんだよ」
「お揃いの指輪なんか買ったでしょ」
真実は胸にかけてある指輪を思う。左手の薬指に合わせた、姉とお揃いの指輪のことを。確かに真実が買えと言ったわけではなかった。あくまでも結子の意思で買ったものだった。深い考えがあっての行動かどうかはわからないが、結子が買ったことは動かない事実だ。
「そもそもは、俺が」
あまり人通りのない静かな道でも、時折は誰かとすれ違う。会話を聞かれたくなくて、そのたびに黙った。足音が遠くなるまで口を開かなかった。
「俺が、その、姉ちゃんを悩ませるようなこと言ったからだろ」
「確かにそうかもしれないけど、指輪買ったの私だし」
「魔が差したんじゃないのか」
結子はしばらく黙っていたが、「ううん」と首を横に振った。長いストレートヘアがゆらゆらと揺れる。
「私が、欲しかったんだと思う。指輪」
「自分の指輪だけ買えば良かったのに」
「だから」
結子の声が、少しだけ強くなる。
「多分、お揃いが。欲しかったのかも」
真実は思わず立ち止まった。これ以上入ってはいけない気持ちと、何かを期待する気持ちとの両方がせめぎあい、心の中がざわつくのを感じた。
「おい、それってやばくないか」
三歩先で立ち止まった結子は真実を振り返り、これから泣くのか、それとも笑うのか、よくわからない表情を見せる。
「結構やばいわよね」
「かなりやばいだろ」
「でも、最初に言い出したのはあんたよね」
 抜き差しならないことになってしまったと、真実は初めて気付いた。自らの言動が姉に及ぼした影響がどれほど大きかったか、その瞬間に初めて悟った。結子の気持ちの中に、真実と似たような波長を感じたことは間違いない。しかしそれはほんのわずかなもので、真実の持つ思いの強さに比べたら爪の先ほどにも及ばないものだと思い込んでいた。
「俺、だよな」
「うん。言い出したのはね」
結子は胸に手を当てた。その位置には、コートの奥に指輪がぶら下がっているはずだ。
「言い出したのはあんただけど。真実、あんた考えなかったのかな」
「考えるって、何を」
「もしも私も同じこと思ってたらどうしようって」
真実も胸に手を当てた。こぶしで軽く胸を叩くと、固い指輪が微かに胸を圧迫した。
 これは、はぐらかすべきなのか。モラルというものを優先して考えれば、はぐらかすのが正しいかもしれない。けれども真実は、結子の問いかけをはぐらかすことのできるような器用な男ではなかった。そして何より、結子への思いが真実の中に常に息づいていた。結子を好きだと告げたのは、他ならぬ真実だった。
「それは、姉ちゃんも、俺を」
こぶしをぐっと握りしめ、真実は声を絞り出した。
「俺を好きだとか、そういうことをか」
何も答えず、結子はじっと真実を見ていた。街灯の薄暗いあかりに照らされた色白の美しい顔を、真実には直視することができなかった。

 

 俺は、考えただろうか。真実は立ち止まったまま、懸命に思い起こした。姉に自らの気持ちを、一方的に押し付けたほんの少し前のことを。そして思い至った。まさか姉が同じ思いを抱いているとは想像もしていなかったことを。少しばかり感じた真実への思いは姉弟愛のかわいらしい延長、その程度にしか考えていなかった。
「ねえ、真実」
結子は深刻な今の状況にそぐわぬ笑顔を浮かべて、首をかしげるように真実を見上げて言った。
「私たち、逃げちゃおうか。このまま二人で」
 できるわけないだろ、そんなこと。そう言いたくても、真実は声を出すことはできなかった。ただ黙って、夜道に立ち尽くすばかりだった。
 進むことも、戻ることもかなわない。自らのまいた種を、どうやって刈れば良いのか。真実は足元が緩やかに崩れ落ちていくような、暗い不安を感じずにはいられなかった。