ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】8 永遠に終わらない冬

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 二人して立ち止まっていても、他人に見られればおかしく思われてしまう。真実は動揺する気持ちを何とか取り戻そうと、結子に「行こう」と声をかけて歩き始めた。結子も黙って横に並ぶ。行こうと言っても行く当てもなく、ただとぼとぼと真冬の夜道を歩くだけだった。雪国であったら歩くことすらできないが、ここは都会であり今年は暖冬だった。
「寒いだろ、もうずっと歩きっぱなしで」
「うん、寒い」
「どこかでお茶でも飲もう。でないと本当に風邪引いて、仕事始めから休むことになるぞ。かっこ悪いだろ」結子は小さな声で「そうね」と素直に答えた。街灯に照らされた横顔に、今は涙はなかった。けれども明るい場所へ出てみれば、結子本人にとってあまり披露したくない顔だろうなと真実は想像した。恐らく目は赤く、頬には涙のあとがくっきりと表れているだろう。
 もうしばらく歩けば、大きなターミナル駅に出る。いくらでも店はある。都会は便利だと、真実はありがたく思った。逃げようと思えば、いくらでも家から逃げられる。どうせ帰宅しなければならないのだ。姉と共に、同じ家へ。真実はもう何度目かわからないくらい、たくさんの溜め息をついていた。結子に聞かれたらいけないと、息をひそめてつく。溜め息をつかざるを得ない状況を招いたのは自分自身だというのに、つい口から漏れてきてしまう。
「お酒でも、飲もうか」
結子は魂の抜けたような声で呟く。何のやる気も起きないといった風情だ。
「こんなときに酒はやめといたほうがいいんじゃないか」
「こんなときってどんなときよ」
「だから、今みたいな何となくやばい感じのときだよ」
「やばいときだから飲んだほうが無難じゃないのかしらね」
「どうして」
「私たち、しらふで話すほうがずっとやばいわよ」
真実は結子の気持ちがわからないでもなかった。酒が入っていれば、うっかり妙なことを口走っても酒のせいにできる。けれどもまともな頭で話せば、それだけ言葉の中身は重くなる。だからといって、酒を飲んで現実逃避してごまかすことが良いとも思えなかった。
「やめとこうよ、酒は」
「嫌がるのね」
「今飲んでも美味くないと思うよ。それより姉ちゃんの好きな甘いもんでも食ったほうがずっと気持ちは落ち着くと思う」
甘いお菓子は一時的な精神安定剤になるのだと、大学の友だちに聞いたことがあった。甘いものが苦手な人にとってはその限りではなくても、好きであれば意外と効いているのだとか。疲れ切っているときに飴一個でほっとするのと似たようなものだろうかと、真実は想像していた。今の結子の気持ちは、不安定どころの騒ぎではないはずだ。酒など飲ませたら、悪酔いして大変なことになりそうだった。それよりケーキの一つや二つでも食べさせたほうがずっと安全なのではないかと思えた。
 多少値段は高いが、中は落ち着いていてコーヒーもケーキも美味しい店を選んで入る。いつもならば嬉々としてメニューに向かうはずの結子だが、今日はさすがに元気がない。たくさん並ぶケーキの写真をぼんやり眺めるばかりだ。仕方なく、真実は一つずつ写真を指差し、これは好きか、ならこれはどうかと確認していった。そして結子が食べられそうなケーキを二種類選び、コーヒーと一緒にオーダーする。
 目の前に置かれたきれいなチョコレートケーキを、結子はぼうっと見つめていた。
「ほら、一口でも。少し疲れ取れるから」
真実はフォークを取って結子に差し出した。結子はフォークを手にして、のろのろとケーキに突き刺した。ほとんど黒に近い焦茶色の一角が、脆く崩れる。中からクリーム色のスポンジケーキとチョコレートクリームが顔を覗かせる。
「ここのチョコレートケーキ、好きだっただろ」
こくりと結子はうなずき、肩を落としたままでケーキを口に入れた。小さな口が上下に動く。すっかり口紅が落ちてるなと、真実は思った。店の照明はかなり落としてあるけれど、それでも姉の化粧が崩れているのがわかった。あれだけ泣けば化粧も落ちるだろう。結子は化粧などしなくても美しいと真実は思っている。もとより真実は、女性の厚化粧が嫌いだった。結子は化粧をしてもしなくてもあまり顔は変わらないので、無理して毎日しなくてもいいのにとも思っていた。一度そのように言ったことがあったが、「いい年した女が化粧もせずに会社に行けるか」と怒鳴り返された。紅の落ちた唇の中に、一口、また一口と、少しずつゆっくりとチョコレートケーキが運ばれていく。食べる気分になってくれて良かったと、真実はほっとした。

 

 実のきょうだいがお互いに恋をしてしまうなどということがあるのだろうかと、彼はふと考えた。真実とて、何もせずここまできたわけではない。自らが陥っている精神状態に問題があるのかと、大学の図書館で心理学の文献を漁ったりしたこともあった。しかしどれを読んでもどこかで聞いたことのある有名な専門用語やその説明が書いてあるばかりで、全くピンとこなかった。むしろこんなことは授業で聞いて知っていると、反発を覚えるほどだった。
 手に取ってみた本の中で、反発と同時に激しい疑問がわき上がってくるものもあった。人間の精神には、幼い頃から密着して共に過ごしてきた人に対しては、異性として意識しないようなメカニズムが組み込まれているとの意味が書いてあった記憶がある。そんなことはおかしいと思った。真実は、人間の全てが一つの型にくくられてしまうわけがないと思った。絶対にあり得ないとひどく感情的になったりした。
 存在しないわけが、ない。確かに少ないかもしれない。けれども、ずっと一緒に育ってきたきょうだいに対して恋の気持ちを抱いてしまう人が、この世に存在しないわけがない。きっと隠されているからだ。家庭の中で、厳重に施錠して隠されているからだ。だから学者とかいう偉い人たちも、うまく研究ができないのだ。そうとしか、真実には思えなかった。
 口をつけたコーヒーは、苦かった。モンブランに渦巻く螺旋状のクリームを見て、目が回った。螺旋を崩したくて、フォークを突き刺し一口食べてみる。口に飛び込んできた突然の甘みに、舌がじんと痺れた。
「これも食うか」
結子に向かってモンブランの皿を押し出すと、彼女は首を傾げて「後で」と言う。
 客の少ない静かな店内に、誰もが知っているショパンのワルツが流れている。結子も真実も幼い頃からピアノを習わされていた。高校時代にやめてしまったが、今流れている曲は二人とも弾くことができるはずだ。
「私よりもあんたのほうが、上手かったわね」
結子はうつむいてケーキをつついたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「何が」
「ピアノ」
「別に上手くなんかなかったと思うけど」
「私よりもずっと手は大きいし力も強いから。練習してれば上手く弾けて当たり前なのよね」
確かに、結子の手は小さい。今日、改めて小さいことを実感した。指輪のサイズが証明していた。
「オクターブが届かなくて苦労してたのに。真実は軽々弾いてて悔しかった」
「そのかわり姉ちゃんは速く弾くのが得意だっただろ」
「まあね」
カチャンと音を立てて、フォークが皿に乗せられる。チョコレートケーキは全て結子のお腹の中に収まった。甘いものを食べて落ち着いたのか、彼女の顔色は少し良くなっていた。
「あんたの手があんなに大きくて馬鹿力だとは思わなかったわ」
「馬鹿力って」
「骨が折れるかと思った」
指輪を買った帰り道、カフェでわざと力を入れて握手してみせたことを思い出す。たとえ弟であっても男を軽く見るなという警告のつもりでしたことだ。そして真実にとっては自分自身への警告でもあった。姉はこんなにも小さくか弱いのだから、命懸けで守ることはしても傷つけることをしてはならないと、自分に向かって言い聞かせていた。
 しかし力は制御できても心は制御できなかった。だからあの日、好きだと言ってしまったのだ。腕力で傷つけることはしていなくても、結子の心を傷つけている。真実は、なぜこの思いを抑えることができなかったのか、自らの意思の弱さを悔いた。
 俺ってガキだなと、真実はそっと呟いた。大人の男なら、きっとこの程度のことは我慢するに違いない。この程度…実のきょうだいを好きになってしまう程度。この「程度」が他の人にとっていかほどの重みがあるのかわからないが、とにかく自分がやってしまったような失態はおかさないに違いない。いや、ガキだとか大人だとかの問題だろうか。要するに自分自身が意思が弱いだけの問題か。

 

 真実は自らを嘲笑した。本当に小さな声を出して笑った。結子は眉をひそめて妙な表情を見せた。
「何よ」
「俺、バカだよな」
くすくすと笑う声が、真実の口から漏れる。
「あんまりバカだからさ、やっぱり姉ちゃんのそばにいるべきじゃねえよな」
「な、何よそれ」
「俺ってあの家にいちゃいけない男なんだよ、きっと」
真実は笑うのをやめて、ふと真顔になった。
「家、出ようかな」
結子はぱっと顔を上げて、目を丸くした。
「何それ、どういう意味よ、一人暮らしでもするつもりなの」
「うん、それが一番いいと思う」
「家を出て、バイトでもして生活費稼いで、そのまま結婚してとか、お決まりのコースってこと」
結子の言葉を聞いて、真実は胸がずきりと痛んだ。そのまま結婚して、お決まりのコース。確かに男に多いケースだと思う。大学時代に実家を出て一人暮らしを始めて、恋人を見付けて、別れたりまた新しい恋人を見付けたりしてを繰り返しながら就職して、大人の階段を上がりつつ結婚をする。本当によくあるケースだ。しかし、真実にとって実家を出るところまでは何とかできたとしても、新しく恋人を見付けるなどということができるだろうか。心の中で「できない」という即答が響く。
「バイトしたりして大学卒業して、就職して、その程度だよ」
「恋人や結婚が抜けてる」
「どうしてもそれ入れなくちゃいけないのかよ」
「男が家を出て行くときってそういう要素が大いに含まれるものだけど」
真実はコーヒーに口をつけた。熱かったコーヒーが、かなりぬるくなっていた。
「今はその要素は考えられない。でもおいおい考えられるようになればいいだろ」
「今、考えられない理由って」
「言う必要ないだろうが、今さらだよ」
「おいおい考えられるようになればって」
「そうしないと、姉ちゃんに迷惑かける」
 結子の目の前にある空になったチョコレートケーキの皿と、ほんの少し口をつけただけのモンブランの皿を、真実は取り替えた。
「ほら、それも食えよ。美味しいから」
「イヤ」
「なんでだよ、モンブランも好きだろ」
「真実が家を出ていくなんて嫌よ」
「えっ」
モンブランは食べるけど、あんたは家にいるって約束して」
真実はまた結子の思考回路のジャンプが始まったと思って、首を傾げた。
「あのさ、モンブランと俺の一人暮らしと何の関係があるんだよ」
モンブランは好きだから食べる」
「それと俺の一人暮らしは関係ないだろ」
「なくてもいい。とにかく家にいて。でなきゃ私が一人暮らしする」
モンブランの螺旋で感じるよりも激しい目眩がしてきた。結子の思考は本当にわけがわからない。
「なんでそこで姉ちゃんが一人暮らしすることになるんだよ」
「私の方が経済力あるから」
「そういう問題かよ」
「そうよ、あんたに一人暮らしなんか無理よ。家にいて」
怒ったようにがつがつとモンブランを崩して、結子は呟いている。ゼッタイヤダ、ゼッタイヤダと微かに聞こえてくる。どうしてそんなに嫌なのか。どうしてそんなに。
「何がそんなに嫌なんだよ」
結子は口をつぐみ、モンブランをもぐもぐと食べている。
モンブランとも一人暮らしとも関係ないだろ、姉ちゃんの言いたいこと。何なんだよ」
こくりと喉を鳴らして、結子の腹の中にモンブランが収まっていく。真実は携帯を取り出して時間を確認した。まだまだ帰宅すべき時間まで十分あった。
 客は少ない。ざっと見渡して、三組。いずれも遠く離れている。もちろん知った顔はない。BGMは相変わらずショパン、どうしてショパンばかりなんだ。真実は別にショパンが好きなわけではなかった。きっとBGMに合うからだろう。きらびやかなピアノの音色に、真実は何故だか投げやりな気分になった。
「言っちゃえよ、もう。俺が何なのか。どう思ってるのか。姉ちゃんの感じてることを全部ぶちまけちまえよ」
「言ったって何の解決にもならないじゃないの!」
「声が大きい」
「冷静ね」
「姉ちゃんから返ってくる答えがわかってるからだよ」
「答えてないのにどうしてわかるのよ」
「ここまできてわからない俺って、物凄いバカだと思うけどな」
真実は水をがぶりと飲んだ。氷水が冷たい。頭が冷える。
「姉ちゃん、さっき道端で言ったよな。姉ちゃんも俺と同じこと思ってたらどうしようって想像しなかったのかって」
結子は鈍くうなずいた。
「その上、俺に家を出て行くなって、これ以上の答えがあるかよ」
「あるわよ」
「なんだよ」
「私、決定的な一言は言ってない」
一瞬、真実は興醒めしそうになるところだった。だが、この姉の反応が可愛らしくてどうしようもなくて、笑えてきた。自分よりも大人だと思い込んでいた姉は、信じられないほど『少女』だった。『女の子』だった。
「だから、言っちまえよ、それをさ」
「だから解決になんか」
「なるよ、解決に。今この瞬間の解決ができる。何もかも全部まとめて解決しようとするから混乱するんだ。一個ずつ解決すればいい」
「でも」
「泣くな。泣くなら外に出てからにしてくれ」
 真実の心は、ひどく冷えていて、怖いほど静かだった。目の前の『姉という名の女の子』を前にして、とても冷徹な気持ちになっていた。自らがその立場に立たなければ、彼女の相手はできないと心の底から感じた。決して結子の感情に引きずられてはならないと思った。真実が結子を引きずり回しているように思っていたのに、本当は結子が真実を引きずり回していたのかもしれない。

 

 「言えよ、言いたいこと。言っちまえよ。誰も聞いてない。俺以外」
「そんな。どうしてそんなひどいこと言うの」
食べかけのモンブランの残骸が、結子の最後の砦に見えた。可哀想なほどに崩れ果てていた。
「どうして俺がひどいんだ。何かひどいこと言わせようとしてるのか」
「そうでしょ、ひどいわよ」
「だから何がひどい。俺は何を言わせようとしてるんだ」
「ひどいことよ。世界一ひどい」
モンブランの一角が、触ってもいないのに小さく崩れてぽとんと皿に落ちた。
「世界一ひどいことって、なんだよ。俺に教えてくれよ」
結子の心身はぴりぴりと緊張していた。真実にはそれがありありと伝わってきて、苦しくなった。しかし、ここまできたらやめることはできない。
「教えてくれよ。世界で一番ひどいこと」
 結子は、何分かの重い重い沈黙の後に、口を開いた。


「私が、真実のこと、異性として好きになってるってこと…」


 ショパンの華やかな音楽に似合わない『世界で一番ひどいこと』が、結子の口からぼんやりと告げられた。真実は、目を閉じて深く溜め息をついた。
 嬉しくもなく、辛くもなく、ただ積もり積もった疲労から多少なりとも解放された、真実はそんな思いに満たされていた。