ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】9 永遠に終わらない冬

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 空には星が輝いているのに、二人は地面を見つめて歩き続けた。本当に寒くない冬だ。今夜は特にあたたかい。小さな声で、ぽつりぽつりと話しながら、真実と結子はゆっくりと家路についていた。ただただ、ぽつりぽつりとにわか雨のように、密やかな会話が互いの足元に落とされるばかりだった。誰にも聞かれてはならない会話が。
「ほんとに、好き?」
「俺は好きだよ」
「私たち、お互いに好きなんだね」
「褒められたことじゃねえよな」
「でも、私も好き」
結子の細い指が、ほんの少しだけ真実の手に触れた。真実は急いで手をポケットに隠した。
「俺が好きだって言ったからじゃないかな、それは」
「どうして」
「俺が言わなければ気付かなかったんじゃないか」
「そうかな」
「そうだろ」
「そんなことない」
徐々に強気になってくる結子の態度が、真実には怖かった。結子が急流に飲まれていく。そうさせたのは真実自身だった。後悔が後悔を呼ぶ。
「何でだよ」
「私、真実に彼女ができるの嫌だった」
「だからいないだろ。他の女に興味がないんだ」
「でも普通、きょうだい同士なんてそんなこと干渉するかしら」
「俺なんか姉ちゃんに彼氏ができるたんびにムカムカしてたんだ。別れてくれるとすっきりした」
言わなくてもいいことを言ってしまったと真実は思う。しかしどこか投げやりな気分もあった。言い出したのは自分だ。正直に言ってしまえと。
「そう、なの」
「なんだよ。『ひどい』とか言わないのか」
「別に『ひどい』って思わないから」
「じゃ、どう思う」
「嬉しい、と思った」
「弟が嫉妬してたのが嬉しいのか」
「うん」
「それこそ『ひどい』な」
「私は始めは意識がなかったかもしれない。でも真実がかっこいいっていつも思ってて」
「かっこいい、か」
「あんた顔もいいし、背も高いし、力も強いし、勉強だってできるでしょ」
「そんな男は腐るほどいるだろ」
「でも私には真実が一番かっこよかったのかも。いつの間にか」
「光栄だよな」
「だけどそんなこと、自分で認めるのも嫌だし。だからきっと見ないふりして」
「そ、か」
「好きだった。きっとずっと前から」
「家の中でのだらしない姿とかガキの頃のべちょべちょ汚い姿とか見てきたくせに、今さらかっこよくなるのかな」
「そんなのお互い様よ」
 結子の肩が、歩くたびにトン、トン、と真実の腕に当たる。その近過ぎる距離と感触が不意にたまらなく、我慢できなくなった。
「姉ちゃん、気持ちはわかるけど」
「何よ」
「なんていうか、空気がやばい」
「空気って」
「その、ちょっと離れて歩こう」
「何で」
「俺の気持ちもちょっとはわかれよ。俺たち恋人同士じゃないぞ」
「あ」
結子は初めて気付いたように、小さな手を口に当てた。
「こういう会話の行き着く先って、わかってるだろ」
「ごめん…」
「俺と姉ちゃんは恋人同士にはなり得ないんだよ。なっちゃいけないんだ」
「そうだね」
「確かに言い出したのは俺だよ。本当にごめん。許されないことだってわかってる」
「う、ん」
言われた通り、結子は数センチ程度だけ離れた。
「でもどうしても抑えられなくて。抑えられなくて、抜き差しならないとこまできちゃったな」
「そうなのかな」
「だから姉ちゃん。ちょっと離れて」
「もっと離れるの?」
「もうちょっとでいいから。きょうだいの距離だよ、わかるだろ」
「わかんないよ、もう」
 真実がすっと離れると、結子は磁石のように寄ってくる。手で押し返して距離を取ると、結子のバッグが飛んできた。
「いてっ」
「わかんないわよ、そんなの。何がきょうだいの距離よ。自分が壊したくせに!」
「しっ、声がでかいよ」
「悪かったわね、感情的で。真実、あんた一体どうしたいわけ?」
 時間はまだ遅くはなかった。再び家の近くの公園まで辿り着いたので、真実は結子を促して入った。二人はベンチの端と端に座り、間に結子のバッグを置いて同時に溜め息をつく。

 

 「壊して、ごめん」
真実は、思ったままに口にする。
「別に姉ちゃんをどうこうしたいなんて、変なこと思ってるわけじゃないんだ」
「思ってたら洒落にならないわよ。私たち本当のきょうだいなんだから」
空を見上げると、冬の星座が綺麗に出ていた。星の美しさにしてみれば、自分はなんて汚いのだろうかと真実は気分が悪くなる。
「言うべきじゃなかったけど、我慢できなかった」
「言ってどうするつもりだったのか知りたい」
「ただ、ずっと一緒にいたかった」
「ずっとって?」
「姉ちゃんが、一緒にいてもいいって、許してくれる限り長く」
「一生いていいって言ったら」
「一生そばにいたい。今まで通りみたいな生活してさ。一緒に飯食って、遊びに行ったりして、俺が荷物持ちして…」
じわりと真実の目から涙が溢れてくる。そう、たったそれだけの小さな願いごとから始まっていたのかもしれない。一緒に食べるご飯の美味しさ、一緒に歩いて笑ったり喧嘩したりする時の信頼し切った愉快さ、姉の荷物持ちをしたり召し使いのようにこき使われることの何とも言えない特権の気分。他の男には決して許さないであろうだらしない姿がお互いに見られ、それを何とも思わず素通りできてしまう日々。こんな他愛無い小さな願いごとが、『恋』という形に変貌してしまった。いつの間に恋になってしまったのだろう。真実にも、それはよくわからないままだった。
 「一生、そばにいていいよ」
結子は消え入りそうな声で呟いた。
「え、なに」
「一生、そばにいて。出ていかないで。結婚もしないで」
真実にとっては願ったりかなったりの言葉だったが、手放しで喜ぶことなどできはしない。
「俺は最初から結婚するつもりなんかない」
「だからそれでいいじゃない。私も結婚しない。ずっと二人でいよう」
「周囲が変な目で見るぞ」
「そんなのどうでもいいわ」
何がいけなかったのだろう。何を間違えたのだろうか。どうして実の姉に恋などしてしまったのだろう。誰にも、祝福されないのに。
「姉ちゃん、落ち着けよ」
「無理よ。だって」
「誰かが通ったら」
「だって、あんたのこと好きなんだもの」
「言うなよ」
「あんたから言ってきたのよ、私だって言わせて」
結子の小さな手が、真実の腕を強くつかんだ。
「好きよ…あんたのこと、すごく」
目の前に迫る黒い瞳が、真実の大して固くもない我慢の壁をあっけなく突き崩す。触れてみたい。この白い頬に。赤い唇に。自分だけのものに、してみたい。
「…俺が、悪いんだ」
「そうよ、あんたが悪いのよ」
「全部、俺のせいにすればいい…」
真実は姉の頬にそっと指で触れた。滑らかで丸みのある感触に、めまいを覚える。頬に触れ、まぶたに触れ、耳に触れてみる。あたたかくて柔らかだった。
「悪いのは俺だけど、秘密は絶対に守れよ」
「まさ、」
名前を呼ぼうとする姉の唇を、真実は静かにふさいだ。甘い、と、思った。甘くて、ひどく苦い。あんなにも望んでいた姉の唇が、今、自分に触れている。どうすればこの嵐から抜け出すことができるかと、真実は心の闇を彷徨った。結子の唇も、手も、かわいそうなほどに震えていた。
 心臓が大きな音を立てている。このまま壊れてしまうかのように。長い腕で結子を強く抱きしめ、真実は目を閉じた。もう、死んでしまいたい。このまま二人で。
「…好きだよ、ゆい」
ふざけたときだけたまに呼ぶ、姉の名前。好きだ。自分は実の姉を愛している。女として。彼女のすべてを自分のものにしたい。真実の身体中を暗い欲望が渦巻く。それなのに、自分を汚いとは思わない。つい先ほどまで自分は汚いのだと思っていたのに、なぜかその気持ちがなくなっていくのを感じた。
「真実…」
結子の指先が、真実の前髪に触れた。くすぐったい感触に、真実は思わず目を閉じる。その隙に結子は真実に口づけてきた。
「あんたが、好き」
触れたままの唇が微かに動く。冷たい風が吹いてきて、二人の頬を叩いた。
 冷えていく真冬の空の下、頬を寄せ合って涙を流していた。あたたかい涙だけが、二人の心を溶かす。時折交わす口づけは徐々に深くなり、熱でとろけたチョコレートのような甘みで二人を誘惑した。触れ合った指が、ゆっくりと恋人の動きになっていく。戻れなくなったと、真実は感じた。これが今日だけの、姉の気まぐれであったならと心から願った。けれどもそうでないことが、結子の絡め合った指先から強く伝わってきた。
 家に帰って、どうやって親と話したのか、どうやってきょうだい別々の部屋に入っていったのか、真実も結子も覚えていない。ただ一つだけ覚えているのは、明かりを消し真っ暗になった互いの部屋の前で、ほんの少しだけキスをしたことだけだった。もしも両親に見られたら。そのような気持ちがあっても、もう止められなかった。ただ引き寄せあうように、互いの唇に触れた。

 

 正月休みが終わり、結子の仕事が始まった。真実はまだ始まらない大学の授業を前に、勉強をすることもなく友達と会うこともなく暇を持て余していた。
 母と二人の昼食を終えて二階に上がり、自分の部屋へ入ろうとして、ふと結子の部屋のドアが微かに開いていることに気付く。そのドアを閉めようとして、真実はドアノブに手を伸ばした。薄暗いはずの部屋が明るい。中を覗いてみると、デスクのスタンドがついたままだ。
「まったく、だらしねえな」
スタンドの電源を消そうと、姉の部屋に入る。入った途端、真実は後悔した。入らなければよかったと、なぜか思った。どこを見ても、どこに触れても、そこには姉が息づいている。あと数時間もすれば帰宅する結子の姿を思い、息が詰まった。
 デスクの脇の引き出しを、何の気なしに開けてしまった。かたりと音を立てて開いた引き出しの中には、少し分厚いノートが入っている。その装丁から、女性向きの日記帳であることはすぐにわかった。
「勝手に見るのかよ、俺は」
ぼそりと呟き、震える手で結子の日記帳に手を伸ばす。少しだけ、少しだけだ。何も見なかったことにすればいい。結子の少し乱れた筆跡を目で追い、真実はぱらぱらとページを繰った。
 思わず手が止まったのは、初めてキスをした夜の日記だった。音を立てて、日記帳を閉じる。引き出しに戻す。それなのに、もう一度手に取ってページを開く。罪悪感が押し寄せてきた。
「ごめん、姉ちゃん、ちょっとだけ」
少しだけ。少しだけと心で繰り返しながら、真実はあの夜の日記に目を通した。


『一月二日

 さっき公園で、まさみとキスをしました。
 怖かった。身体が震えました。でも、嬉しかった。いつまでも抱きしめあっていたかった。どうして時間は止まらないのかと、憎くなりました。時間が止まって、季節も止まって、周りの人は誰もいなくなって、私たちが姉と弟であることを知っている人はみんないなくなって、自由にキスしたいと思いました。
 まさみの、彼の唇はとてもあたたかくて、柔らかくて。私はいつもそばにいたはずのに、知らない男の子がそこにいました。まさみは今までに、他の女の子と付き合ったことは何度かあるはず。その女の子たち、みんなに嫉妬します。タイムマシンに乗って過去に戻って、その子たちとの仲をなかったことにしたい。
 私は、彼が好きです。胸が痛くなるくらい、愛してしまいました。まさみが私を好きだと言ったからだと思っていたけれど、そうではない。きっと私もずっと前から好きだった。胸が痛い。苦しい。
 会いたい。すぐ目の前の部屋にいるのに。行こうか。寝顔を見に。もっともっと彼を抱きしめて、キスをして、彼の腕の中で、』


 自分自身への愛を綴ってある文字に真実は夢中で読みふけりそうになったが、急いで日記帳を閉じた。これ以上、読んではいけない。姉の心を覗いてはいけないと、真実は日記帳を引き出しに戻し、スタンドの明かりを消して結子の部屋を出た。
 外へ出ようかと部屋でコートを着かけたけれど、やはりそのような気分になれず、コートを脱ぎすて自分のベッドに横になる。
「…ゆい…」
唇から、結子の名が零れ落ちる。もう「姉ちゃん」と呼びたくはなかった。もう、姉ではない。姉だった結子は、いつの間にか唯一の女性となった。誰にも渡したくない、渡すくらいなら殺したほうがましだと思うほどに愛していた。引き離されるくらいなら、親だって殺すかもしれない。だから、決して知られてはいけない。気付かれることがあってはならなかった。
 真実は携帯電話を取り出して、結子にメールを打った。何度も何度も入力しては消して、迷いながら送信した。
『ゆい、仕事何時に終わる? 公園で待ってるから』
好き、の一言も打てなくて、度胸のなさに泣けてきた。結子からは、五分とたたずに返信がある。
『五時で終わるよ。公園寒いから、駅前のカフェで待ってて』
真実が了解の返信を送ろうとしたところに、もう一通メールが届いた。
『まさみ、好きだよ』
 気が遠くなる。死ぬほど、会いたい。今すぐに結子を抱きしめたい。抱きしめて、キスをして、そして。真実は携帯電話を放り投げ、ベッドの上で頭を抱えた。好きだよ。もちろん、俺もだ。俺のほうがずっと、お前が俺を好きだと思う気持ちよりもずっと、強く強く好きだ。嬉しいのか、悲しいのか、情けないのか、じわりと涙が溢れてくる。思いが通じ合ったのに、こんなにも胸がふさぐ。
『ゆいが好きだ。愛してる』
真実は自暴自棄になった気分で、メールを送った。結子からの返事は来なかった。
 二人で消えたい。どこか遠いところへ。真実は涙を拭って、ぼんやりと天井を見つめた。ぼうっと浮かんでくるのは、結子の美しい横顔だった。