私が洗礼を受けたのは、中学を卒業した直後のイースターでした。
中学3年の5月に母方の祖母を亡くしたのですが、彼女の影響が強くありました。
祖母は私が中学2年のクリスマスに洗礼を受けました。
それはそれはとても喜ばしい出来事で、私も非常に嬉しく、洗礼への憧れを強くしたものでした。
その次の5月、ある日曜日の朝、祖母は亡くなっていました。
前の晩まで、元気だったのに。
教会へ行くための聖書と讃美歌の用意を枕元にして、眠ったままで召されました。
思春期だった私にはかなりショッキングな出来事でしたし、一緒に暮らしていた祖母が突然にしていなくなることがつらくて、わんわん泣きました。
けれども時間が経つにつれ、祖母はとても幸せな死に方をしたのだと思えるようになりました。
教会に行く用意をして、そのまま眠るように。
洗礼を受けてからは5ヶ月の短い間でしたが、とても楽しく教会生活を送っていました。
彼女の嬉しそうな姿は、私に強く印象を残しました。
私も、おばあちゃんのように、喜びに満ちた教会生活を送りたい。
日に日に、洗礼への憧れは強くなりました。
実際に受けたいと意識するようになりました。
高校受験も終わった頃、牧師の次女(同学年で隣のクラスでした)から、
「私、留学前に信仰告白をするの。おはぎも一緒に洗礼を受けない?」
(信仰告白とは、子どもの頃に親の意思で幼児洗礼を受けた人が、自らの意思で「イエス様を信じます」と宣言することで、洗礼のような大事な位置付けです。私は幼児洗礼を受けていなかったので、普通の洗礼ということになります)
このように声をかけられました。
洗礼を受けたいと言い出すきっかけのなかった私には、とてもラッキーな声でした。
きっと牧師が考えて、自分の娘に「良いチャンスだから、おはぎに声をかけなさい」と言ってくれたのだろうなと思っています。
私は喜んで洗礼を受けることにしたのでした。
牧師の次女と二人で、牧師による受洗講座が始まりました。
幼児の頃から教会に通っている私には、特に難しいことはありませんでした。
しかし、たったひとつ、とても難しいことがありました。
それは「私の信仰告白」という作文の宿題でした。
この作文は洗礼の前に教会の役員会(選挙で選ばれるベテランの教会員たちの会。教会の様々な仕事をしている人たち)で読まねばならず、そこで洗礼を受けても大丈夫かどうか決められるのです。
私は、作文はそれほど苦手ではありませんでした。
先生から褒められることの方が多かったほどです。
それなのに、書けない。
どうしても、書けない。
これはなんとしたこと?
その時に、初めて体験したのです。
信仰に関わることは、簡単に言葉で表現できるものではないと。
だから私は、この文章も苦心しています。
たとえ昔の話でも、やはりなかなか書けない。
「私の信仰告白」の作文は、今でもその教会に保管してあるはずです。
今では行く教会を変わってしまったので、見ることもないのですが。
恥ずかしいけれど、ちょっと読んでみたいですね。
そんな信仰告白の作文を苦心の末に書き上げ、なんとか受洗の許可を得て、イースターの朝に洗礼を受けたのでした。
銀色の器に入った水を、牧師が少し手にとって、頭の上にポンと乗せて。
肩から胸にかけて水滴が落ちていったのを、今でも覚えています。
何が嬉しかったのか、今となってはよくわかりません。
それでも、とても嬉しかった。
私は、教会が大好きだったのです。
思えば教会が大好きなあの時代に、このように洗礼を受けることが、私にとって必要なことだったのでしょう。
洗礼は、人間の出来事ではないのですから。