ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】冴子のビーズ【note】

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この前、行くことがかなわなかったイベント。

noハン会。

それの企画の一環で、みんなで小説を投稿して小冊子を作るという。

昨日、届きました!

私の小説も掲載されてるよ!

 

note.mu

 

よかったら読みに行ってね!

 

 

今日は昼前にシャワーを浴びたら、すっかり疲れてしまいました。

 

もう午後は何もしないのだ。

 

って、毎日そんなこと言ってます。

 

 

 

 

あとがきと刈り上げ

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10日くらいのご無沙汰でした!

 

……いや、昔の小説なんか投下してたので。

 

読んでくださった皆様、ありがとうございます!

10年以上前に書き始めて、途中で放置したり。

もう完結させなくてもいいやと思ったり。

設定とか伏線とかどうしようと思ったり。

でも結局、稚拙だけど完結させました。

設定や伏線も回収しないで終わらせました。

とにかく作品は完結させないと価値が落ちる。

という気持ちで書きました。

ほんと稚拙な作品でごめんね。

読んでくださってありがとう!!

 

これもまた私の子どもみたいなものなので、大事に記念にとっておきます。

 

昨日はカットして、また刈り上げてきた!!

サッパリー!!

 

刈り上げいいっすよ……やめられない。

本当にクセになります。

そして、美容院代がかかります。

頻繁に切るから(月イチ)。

 

でもいいの。気持ちいいからー!!

 

 

 

【番外編】永遠に終わらない冬

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 二人は両親からクリスマスプレゼントをもらった。透明なボディにかわいらしいアクセントカラーがついた、小ぶりの万年筆だ。
「結子にはピンク、真実にはブルー、かわいいでしょ」
母がにこにことして、嬉しそうに言った。きょうだいでお揃いのものをもらうのは、小学生の頃以来だ。
「俺、万年筆なんか使ったことない」
「私も」
どうすればいいのかわからず戸惑っていると、父が言う。
「これがインクだ。ブルーブラックっていうスタンダードな色だよ。すぐにはなくならないだろうし、他の色を使ってみたくなるだろうから、まずは二人で一瓶、一緒に使いなさい」
父が真実の万年筆を取り上げて、インクの入れ方の解説を始める。まず、キャップを外して、インク瓶の中にペン先をドボンと浸けて、お尻のところをクルクル回すとインクが充填されるのだ、と。一度入れたインクをすぐに瓶へ戻し、父は真実に「ほら、やってみなさい」と言った。
「で、できるかな」
「誰でもできるよ」
真実は小さな万年筆を指先で持ち、インク瓶にそろそろと差し込んでみる。慣れないことで、少しばかり手が震えている。父がお手本を見せてくれたように、真似をしてインクを入れてみる。
「あ、できる」
「だろう」
「反対に回せば、インクが出ていくんだね」
楽しそうにインクを入れたり出したりしている姿を見て、結子もやってみたくなった。
「私にもやらせて」
「待って、インクが垂れる」
父から差し出されたティッシュを急いで取り、真実はペン先のインクを丁寧に拭き取った。指先に紺色のインクがついている。
「姉ちゃん、ちょっと紙。何か書いてみたい」
結子が電話の近くに置いてあるメモ用紙を持ってくると、真実はサラサラと自分の名前を書いてみる。
「うわ、格好いいじゃないの、万年筆って感じだわ」
「だよな、ちょっと大人」
「色もかわいいし。私も早くインク入れたい。こうでいいのかしら」
結子も見よう見まねでインク瓶にペン先を浸ける。父や弟がやっていた通りに手を動かすと、万年筆のボディが深い紺色に染まってくる。
「なんだか、格好いいわ」
楽しい気分で、結子はインクを充填し、真実と同じ紙に試し書きをした。
「二人とも、気に入ったか」
父の嬉しそうな言葉に、姉と弟は思い切り首を縦に振る。
「すごく。万年筆なんか使ったことないけど、こんなに格好いいなら仕事でも使えそう」
「俺もノート取るのに使おうかな」
「あんた大学生のくせに万年筆なんて、生意気」
「なんだよ、自分だって今日初めて触ったんだろ」
 既に25歳を過ぎた結子と大学四年生の真実は、初めての万年筆に心躍らせながら、二人で紙に名前を書いたり丸や四角を書いたりと、無邪気に喜んだ。


 結子は自分の部屋に戻ると、鍵付きの引き出しから小さな日記帳を取り出した。昨日までボールペンで書いていた日記を、今夜からはこの万年筆を使おうと、少しだけ書いてみる。
『12月24日  お父さんから万年筆をもらいました。まさみと色違いのお揃いです。私はピンクで、まさみはブルー』
そこまで書いて、ページをめくってみる。インクがページの裏に染みてないか、心配になったのだ。多少の滲みはあるが気になるほどでもなかったし、誰に見せるものでもないので構わないと結子は思った。
 そう、誰に見せるものでもない。見せてはいけない。誰であっても。
『お揃いの万年筆。困る。いや、嬉しい』
書いて、上から線を引いて消す。
「嬉しいけど…」
嬉しいけれど、複雑だった。いい大人になったきょうだいが、お揃いのものを持っている。父と母はいつもそうだ。私たちを、いつまでも昔の仲良しだった姉と弟だと思っている。
「そりゃ、仲はいいけどさ」
指先で万年筆を弄びながら、結子は小さな声で呟いた。
『私たちは、仲がいいだけじゃない』
『私たちは、とても仲がいい』
『私たちは、とても親密』
『私たちは、』
結子は、戯れに書き始めた12月24日の日記のページを、音を立てて破り取った。びりびりと細かく、文字が判別できないほどになるまで破り、ごみ箱に捨てた。
 部屋のドアがノックされる。結子は開いていた日記帳を、急いで閉じて引き出しの中にしまった。
「姉ちゃん、そろそろ時間だけど」
「ごめん、いま行く」
二人で映画を観に行こうと約束していた。
「早くしないと入れなくなるぞ」
「わかってるってば」
外出の相手は気を使わない弟とはいえ、外へ出れば誰に会うかわからない。結子は簡単に化粧をして、お気に入りのジーンズをはく。セーターの上から、指輪の形のペンダントをぶら下げた。


 きょうだいで観に行った映画の中には、偶然にも万年筆が登場した。年老いた男性作家が、黒い万年筆を使って手紙を書くシーンだ。節くれだった指先にその太い万年筆はとても似合い、貫録を感じさせている。結子の心はその場面から動かなくなった。万年筆で、手紙。愛する人に向けて。自分にいつか、そんな日が来るのか。誰か、今は知らない愛する人に、手紙を書くなんて。
 食事を済ませた帰り道、結子の手は知らずしらずのうちに、真実の腕にすがるようにつかまっていた。人ごみの中で、手を繋いでいなければはぐれてしまう。真実は、結子の手を振り払うことなどしなかった。なぜなら、いつもそうして歩いているから。
 人ごみを抜けて住宅街に入ると、急に静かになる。もうはぐれることもないのに、結子は真実から離れなかった。
「あの万年筆」
「うん」
「姉ちゃん、何に使うの」
真実の呟きのような問いかけに、結子はしばらく考えた。
「ラブレター書くかな、映画に出てきた作家みたいに」
「ラブレターね。誰にだよ」
「あんたじゃないわよ、きっと」
「俺でもいいけどな」
自宅へ向かう近道として通り抜ける公園で、結子は真実からふと離れ、ベンチに腰かける。
「あんたは何に使うのよ」
「あんたって呼ぶなよ」
「真実くん、何に使うんですか」
腰かけることなく立ったまま、真実は夜空を見上げて白い息を吐く。
「ラブレター書くかな」
「誰によ」
「姉ちゃんに」
ふん、と鼻で笑う。二人はいつも、こんなやり取りばかりだ。
「やめてよ、お父さんやお母さんに見られたら、軽く死ねる」
「俺だって死ねるな」
結子は冷たい両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。
「残しちゃだめなのよ、文字なんか」
「日記なんか書いてないだろうな」
「書いてる」
「残してるじゃねえか」
「そのうち会社の焼却炉にでも突っ込むわ」
「焼却炉なんかあるのかよ」
「あるのよ、古い敷地だから」
 コートの中、胸にぶら下がる指輪のペンダントを結子は感じていた。結子自身が選び、真実とお揃いのものを買ったのだ。それを買ってから、二人には少しずつお揃いのものが増えていった。ほんの小さな雑貨から洋服まで。ただし、デザインを微妙に変えて、悟られないように。
 その中に今日、はからずも万年筆が増えた。結子は、嬉しかった。両親が二人の仲に気付いていないことが嬉しく、堂々とお揃いを使っていいことが嬉しく、ただ単純に美しいものを分け合っていることが嬉しかった。
「真実」
「なに」
「やっぱり私、あんたのこと好きみたい」
「知ってるよ」
真実は、大きな手で結子の頭をそっと撫でた。指先で髪に触れて、すぐにその手は逃げていく。結子はその指を追って、手を伸ばした。触れ合った手は、冷え切っていた。ほんの数秒、指先を繋いで、また離れる。
「あんたさえ、私のことを好きだなんて言わなければ、こんなことにならなかった」
「わかってるよ、俺が悪い」
「そうよ、あんたが悪い」
結子の隣に腰かけ、真実は呟いた。
「いいよもう、悪いのは俺だけで」
真実は腕を伸ばし、結子の肩を静かに抱き寄せた。
「いいよ、そういう姉ちゃんのままで。もう、わかってるから」
 結子はバッグの中から今日もらった万年筆を取り出し、真実に差し出した。
「どうしたの」
「取り換えっこしよう」
真実もバッグから万年筆を取り出して、結子に渡した。
「あんたのものを持っていたいの」
「俺、男なのにピンクかよ」
「そういうことこだわる方が格好悪い。いいのよ、男だってピンク持っても」
ブルーの万年筆をそっと頬に寄せて、結子は呟く。
「真実をいつもそばに置いておきたいの」
「そんなことしなくても、俺はどこにも行かない」
「いつかはいなくなるわ」
「いなくならない。姉ちゃんさえ、許してくれれば」


 こんなこと、長くは続かない。いつかきっと崩壊する。結子はそう思いながらも、今のあたたかさを手放すことができない。自分を恋い慕う弟、弟を愛する自分。間違っている。それなのに、どうしても気持ちが止められない。
 いつかきっと、すべては終わる。終わるまでは、このままで。この万年筆が、壊れるまで。万年筆って、壊れないのかな。壊せば、壊れるのかな。
 お父さん、お母さん、ごめんなさい。ごめん、なんて実は思っていない。誰にも悪いなんて、思っていない。ただ、流れ出す気持ちがあるだけ。
「姉ちゃん、もう、帰ろう」
同じ、家へ。二人が生まれた家へ。
「あんなところ、帰りたくない」
「馬鹿言うな、帰るぞ」
 冬の夜道を歩き出す足取りは重い。弟の手に引かれて、結子はぼんやりと進む。万年筆、いつ壊れるかな。絶対に壊したくない。
 このブルーの万年筆は、私のもの。

 

 この子は、ずっと、私のもの。

 



【小説】終・11 永遠に終わらない冬

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 午前四時三十分。

 もしも家で親が起きていたら、次の機会を考える。けれども親がどちらも眠っていたら、今がチャンスと考える。貴重品や身分証、簡単な着替えを持って、このまま二人で逃げる。家を出ますとの、手紙を残して。
「なんの準備もしてないけどいいのか」
「準備なんかあってもなくても、見つかるときは見つかるわ。だったら今よ、きっと」
 果たして、両親は眠っていた。子どもたちが飲み歩いて深夜まで帰宅しないことなど、珍しいことではなかった。彼らにとって昨夜は運命を左右するような一晩ではなかったのだ。娘と息子にとっては、人生を変える一夜であったのだが。
「寝てるみたい」
「じゃあ、急いで用意しよう」
二人は互いの部屋に入り、身の回りの荷物を簡単にまとめた。銀行の通帳や印鑑、運転免許証や身分証明書、とにかく重要だと思われるものを荷物に入れた。そして、両親に宛てて手紙を書き、印鑑を押す。

 


『二人で家を出ます。お願いだから探さないでください。私たちの意思です。捜索願は出さないでください。いつか必ず帰ってきます。理由はそのときに話します。しばらく二人きりにさせてください。森山結子、森山真実』

 


 手紙を結子のデスクの上に残し、二人はそっと玄関へ向かう。父も母も起きてくる様子はない。
「行くわよ」
真実は結子の囁き声に頷き、静かにドアを開いた。しばらく帰らないであろう実家のドアに、ほんの少しさよならを言う。まだ夜明けは遠く、外は闇に包まれていた。
 家を出て、駅へと向かう。ホテルから家に帰るときはタクシーを使ったが、もう始発は出ている。いくつかの駅を通り過ぎ、家の近くを離れてから、まずは24時間営業のファミリーレストランに入り、これからの相談をした。
「とにかくこのあたりから離れなきゃ。東京へ行かなきゃね。当座のお金は私が結構持ってるから安心して」
「俺、あまり持ってないなあ、バイト代が入る前だ」
「大丈夫よ。仕事は、しばらく休むわ。そのまま辞めてもいいし。別の土地で適当な仕事が見つけられれば」
「訳ありのカップルでも入れる住み込みバイトでもあればな。リゾート地とか、結構あるって友達から聞いたことあるよ」
「とにかく東京でそういう情報を集めてみましょう。ネットで調べればかなり出てくるはずだから」
「ゆい、頼りになるな」
ドリンクバーのジンジャーエールを飲みながら、真実は少し笑った。結子も笑って、コーヒーを飲む。
「実は学生時代に失踪した友達がいるのよ」
「そうなのか。そんな話、初めて聞いたぞ」
「なんだか、言わない方がいいような気がして、今まで秘密にしてたの。しばらく前に、私、東京に出張したでしょ。その子と偶然、渋谷で会ってね、いろんなこと聞いたのよ」
「いろんなこと、ね」
結子はほんの少しだけ、声を低くした。
「退職しておけとか、携帯は解約して新しいのを買えとか、仕事はあんなのやこんなのがあるとか、あと病気と怪我だけは気をつけろとかね。これからは保険証は使えない生活になるかもしれない。このまま見つからなければ」
真実はふとうつむく。このまま、見つからなければ。恐らくそのようなことはないだろう。いずれは見つかる。または、いずれは自分たちから帰宅するだろう。本当のことを、話すために。暴力をふるうとか、経済的に困窮しているとかなど問題のある両親というわけでもなく、ごく普通の家庭なのだ。自分たちもまた、ごく普通の子どもたちだった。ならば、親たちはきっと捜索願を出すだろう。真実はいつのことになるのだろうかとぼんやり感じながら、それでも結子のそばにいて、結子と二人きりでいられることが嬉しかった。
「駆け落ち、だな、これ」
「そうだね」
「不安がないと言ったら嘘になるけど」
「うん」
「でも俺はゆいといたいから」
「私もだよ。だから決めちゃった、もう」
 つい十二時間ほど前、右手の薬指にはまっていた指輪は、今は左手の薬指にある。真実もまた、左手の薬指に指輪をしていた。もうどうせ誰も見ないのだから、見とがめないのだから。
「俺、大学やめる」
真実は指輪を撫でながら言った。
「本当は別に、先生になりたいわけじゃない」
結子は黙って聞いている。
「やりたいことなんて、本当はなかった。ちょっと憧れてただけでさ」
「いいの?」
「うん」
「本当にいいの?」
「それよりも、ゆいのこと、大事にしたいんだよ」
「ありがと、まさみ」
結子の指が、真実の手に絡みつく。誰も見ていないから、できる。二人が似ていないきょうだいだから、できる。
 携帯電話の電源は切ってある。親から電話があっても、わからない。朝になり、結子は上司の自宅に直接電話し、しばらく休むと伝えた。真実は何もせず、そのまま二人は東京へ向かった。

 

 

 朝は、来たかのように、見えた。

 

 

 

 東京に出るよりもはるか前に、二人はあっさりと親に見つかった。昼頃のことだった。
 駅の改札を入る直前に、結子の手首を掴んだのは父親だった。それを離そうとした真実と父がしばらくもみ合いになったが、駅員が来て引き離し、それでも口論になるので、駅の事務室へと連れて行かれた。
「お父さんがなんでこんなとこに」
結子が詰まる声でたずねると、父親は難しい顔をして苦々しく答えた。
「偶然だ。あちこち心当たりを探して、ここを通りがかったら、お前たちが行くところだった」
「偶然?」
「本当に偶然だ」
真実は思わず目を閉じた。これが偶然とは、あまりにも悲しい。一方で父は、安堵した声で呟いている。
「早く見つかって、運がよかった」
運がよかったのか、悪かったのか。結子は泣いている。真実も泣きたかった。せっかく決意して出てきたのに、ほんの数時間しか持たなかった。
「とにかく帰るぞ。お母さんも他のところを探してるから、すぐに連絡して」
「嫌よ、帰りたくない」
「結子!」
父にきつく睨まれ、結子は黙った。真実は、深く追い詰められた気持ちになった。ほんの数時間の自由。ほんの数時間だけの解放。あと一分、いや一秒でもタイミングがずれていれば、今頃は東京行きの特急の中にいたはずなのに。真実は思わず、使えなかった指定席の切符を、破ってスニーカーで踏みつけた。その瞬間の顔を、父親はじっと見ていた。結子もまた泣きはらした顔で、使うことのなかった切符を破って床に落とした。


 家に無理やり連れて帰らされ、二人は父と母からじわじわと問い詰められた。なぜ一晩帰ってこなかったのか、なぜ二人で家出しようとしたのか。もう子どもでもないのに、なぜそんなことをしたのか。
 しかし二人とも、身体の関係を持ったことは、決して言わなかった。言ってしまえば親たちを殺すのだとわかっていた。だから、言わなかった。
「ちょっと、家出って、やってみたくて」
そんなどうしようもない言い訳しか出てこなかった。見つかって連れ戻されることを、二人ともまったく想定していなかった。情けなくなるような言い訳をつぶやきながら、それでも決して本当のことは言わなかった。
「やってみたくて軽くやるようなことか」
「もう、何もかも嫌になったから」
「学校はどうするつもりだったんだ。結子、仕事は」
「辞めればいいと思ってた」
「そんな無責任なこと。何を考えてるの」
 ありきたりな大人の、つまらない説教。結子も真実も、ほとんど口を開かなかった。話してわかることではないし、わかってほしいとも思えなかった。しょせん、わかることではないと感じていた。
 わかるわけが、ないのだ。実の娘と息子が、きょうだいが、愛し合っていることなど。

 

 

 大人しく縮こまって、二人は息を止めて、触れ合うこともなく、両親に監視されながら実家で暮らし続けた。真実が教職を本気で諦め、遠く離れた島の小さな会社へ、就職を決めてくるまで。離ればなれになった姉と弟は、ただ抜け殻みたいになって、ひっそりと連絡を取りながら、若い日を過ごしていた。
 結子も真実も、一緒に死んでしまいたいと思った。親が死ねばいいとも思った。けれども心中する気持ちにはなれなかった。どうすれば自由になれるのか、考えに考えた。考えた結果、長い道のりを選ぶことにしたのだ。

 

 

 二人は、それぞれに結婚した。愛してもいない相手を探した。互いに実家から離れ、親から解放されるまで、十年以上をかけた。結子も真実も偽りの伴侶と離婚するまで、さらに十年近くをかけた。
 二人は徐々に年を取っていった。時間がもったいなかった。もったいないのに、「最後のチャンス」を狙うことしかできなかった。
 両親がこの世からいなくなる、という、最後のチャンスを。

 

 

 

 

 

 

 「私、もうすぐ五十になるよ」
「知ってるよ」
「太ったよね、私。きれいでもないし」
「きれいだよ、相変わらず」
二週間ぶりに会ったカフェで、真実は年に似合わない若さを保つ姉を見つめた。
「五十になるなんて、本当に見えないよ」
「まさみはオジサンっぽくなったよね」
「悪かったな」
あたたかいコーヒーを啜って、真実は窓の外を眺めた。冬の日差しが強く、目が眩む。
 「……やっと死んでくれたね」
「そうだな」
「お父さんもお母さんもほぼ同時に死ぬなんて、ちょっと忙しかったけど」
「どちらかが死ぬと、後を追うように死ぬって、本当のことなんだな」
ほんの数ヶ月前に膵臓癌が見つかった父が死に、そのすぐ後に、看病疲れと心労で急速に衰えた母が死んだ。両親の葬式は出さなかった。そのことを責める口うるさい親戚も存在せず、互いに配偶者のいない姉と弟がいるだけの家で、問題なくすべてを済ませることができた。結子と真実が本当に二人きりになれたときには、お互いに人生の後半にさしかかっていた。
 「まさみ、実家に帰ろう。相続しちゃったんだし」
結子は仕事をしながら頻繁に実家に通い、両親の世話をした。だが真実はその間、一度も親の顔を見ることはなかった。若い頃にきょうだいで駆け落ちしようとしたことを許さなかった両親は、なぜか男である真実に罪があると思い込み、真実を家に入れようとはしなかった。結子はそれを、馬鹿馬鹿しいと心底思っていた。私たちは外でずっと隠れながら会っていたのに、と。そのことを、親が知らなかったはずはなかろうに、と。
「そのつもりだよ。どうせ家の税金も払わなきゃいけないしな」
「早く帰ろうよ、あそこにまた一緒に住もう」
古くなったシルバーの指輪をはめた手が、真実の腕を優しく叩く。年を取っても、結子の指は細いままだ。
「荷物なんかたいしてないから、すぐに帰るよ」
「私もすぐに引っ越すから」
 聴いたこともないような外国語の歌が流れている。最近の若い人の流行は、わからない。二人とも苦笑いして、そんなことを話した。
「わからなくてもいいよね。一緒に、年取ろう」
結子が指輪を撫でながら、言った。

 

 

 もうすぐクリスマスだなと、真実は思う。春も夏も秋も冬も、結子と過ごしてきた。幸せだったときも、離ればなれのときも。その中で、冬だけは特別だった。冬の日差しは、結子を特に美しく見せてくれた。結子に好きだと伝えたのも、結子を初めて抱いたのも、すべて冬のことだった。
 冬は終わらなくていいと、真実は感じた。時が止まらないことは、わかっている。それでも、あの頃のまま、あの夜のまま、冬に閉ざされればよかったと、今でも思う。今でも、結子を愛している。
「ゆい、仕事、冬休みは?」
「二十七日からだけど」
「少しくらい、どこかに旅行にでも行くか」
「それもいいわね」
 離れるくらいなら殺す。邪魔をする奴はみんな殺す。そう思いながら、ずっと生きてきた。親を殺してしまいたいとも思った。殺さなかったのは、結子と真実を出会わせてくれた存在だから。ただ、それだけのことだった。

 

 

 もう、結子と離れることはない。離されるくらいなら、殺せばいい。結子を殺して、自分も死んでしまえば。誰にも、邪魔はさせない。

 


 そんな風に思っていれば、もう何も怖くはない。

 

 

 

(完)

 

 

 

 

【小説】10 永遠に終わらない冬

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 カフェで待ち合わせた結子の表情は、前の晩よりもさらに思い詰めた様子だった。真実はその顔を見て猛烈な不安を抱いたが、一方では冷静に受け止める自分自身も存在した。昨夜、自分と姉がしたことを思えば当然のことだった。
「私さ」
コーヒーカップを持つ手が少しだけ震えている。
「私、家を出たほうがいいかな」
結子は下を向いたまま、小さな声でつぶやいた。
「一人暮らしするつもりか」
「うん」
「お父さんもお母さんも許さないだろうな」
父も母も、娘が結婚前に一人で暮らすことをよしとしない人間だった。特に母親は、若い女の子が一人で暮らすなんて危険なことはよくないと、常日頃から主張していた。一人暮らしの女性を狙った犯罪も多く、そのようなニュースに出会うたびに結子に言い聞かせていたものだった。
「それはそうだけど、このままじゃ」
「このままじゃ、なんだよ」
「このままだと」
「なんだよ」
言いたいことは、痛いほどわかる。このままでは、抜き差しならないことになる。
「このままじゃ、私たちおかしくなっちゃうよ」
 結子はぼんやりと手元を眺めている。彼女の手元を、真実もまた見つめていた。右手の薬指に、真実と揃いの指輪が光っている。真実は静かに手を伸ばして、結子の指先に触れた。結子は何のためらいもなく、真実と手をつないだ。
「どうして拒否しないんだ」
「何を」
「どうして俺が触っても、拒否しないんだよ」
「だって」
「このままじゃおかしくなるんじゃなくて、もうおかしくなってんだろ」
結子ははっとした表情で、急いで手を引っ込めようとした。しかし真実は彼女の手を離さなかった。
「離してよ、誰かが見るかも」
「見ねえよ」
「うちの駅前だし、ここ」
「もう関係ねえだろ、そんなの」
そっと手を離して、真実はコーヒーに口をつけた。まだあたたかい。店に入ってきてから、まだ十五分も経過していなかった。
 真冬の夕方は、すぐに真っ暗になる。窓の外は見えず、真実と結子が向かい合って座っている姿がガラスに映っている。店の中の人は皆、互いに語り合うことに忙しい。むしろ窓の外を知り合いが通ったら、偶然にも手を触れあっているところを目撃されたら、怪しまれる可能性は十分にある。
「俺が出ていくよ」
結子は顔を上げて、真実の目をじっと見つめた。
「いいだろ、俺が出ていけば」
「でも、あんたはまだ学校が」
「バイトでもなんでもすりゃなんとかなるよ」
「これから忙しくなるでしょ、教育実習あるし」
通っている大学、勉強している内容、年度が明けたら始まる教育実習。いずれ迎える卒業、そして先のこともわからないがしなければならないと思われる就職。真実は自らに備えられている道が、何もかも無意味なことに感じられてきた。みんながやっていること、みんながしなければならないこと。父もやっていて、母もやっていて、姉もやっていて、あとは自分がやるだけ。そうすれば家族全員が無難な大人に仕上がり、危険なことは何もない。誰からも後ろ指をさされることもなく、目立つこともない。真実は目立ちたいと思ったこともないし、他と違う道を歩みたいと熱望したこともなかったが、今は目の前の道がどしようもなく困難で苦痛なものに思えてならなかった。言ってみれば、保守的な、人生だ。
 「ゆい」
静かにカップを置いて、真実は低い声で呼びかけた。
「ゆいは、怖がりだよな」
「なによ、突然」
「こんなことになって、すごく怖いだろ」
結子はひどく嫌な表情を見せた。怖がりと断定されて、プライドが傷ついたのかもしれないと、真実は想像した。
「そんなことないわよ」
「強がるなよ」
「本当にそんなことない、怖いわけじゃないのよ」
「俺には怖がってるように見えるけど」
「怖いのはまさみのほうじゃないのかしらね」
意外な返答に、真実は首を傾げる。
「私は怖くなんかないのよ。前は怖かったけど。昨日で怖くなくなったの」
昨夜のことを思うと、真実は胸が疼き、思わず目を細めた。
「このまま、二人で逃げてしまったっていいのよ、私は」
「おい」
「いいのよ、私はね」
真実は、あまり信じられなかった。結子は怖がってばかりいると思い込んでいた。そして自分が彼女を怖がらせているのだと。
「俺も怖くないよ」
何がだ。自分自身に問う。何が怖くないのか。それとも、やはり怖いのか。そもそも、何が。結子は真実をじっと見つめている。
「怖くないんだよ、別に。ばれなければ」
「ばれるのは、怖いのね」
「いや、普通は怖いだろ」
「別に」
眉をひそめて結子を見ると、微かに笑っている。
「いざとなると、女は肝が据わっちゃうのよね」
コーヒーを飲みながら、結子はやはり笑っている。真実の好きな、穏やかな微笑みだった。
「怖くないのよ。まさみに抱かれるのだって」
真実は、どきりとした。確信をつかれた気がした。結子を手に入れて、どうしたい。抱きしめて、キスをして、そしてどうしたい。お互いにもう幼児ではない。その先に何があるのかわかっていて、それでもうまく言葉にできないこと。言葉にすることが、少しばかりはばかられること。
「ねえ、もう、行こうか」
「え、うちに帰るのかよ」
「違う」
結子の顔から、微笑みが消えた。
「二人きりになれるとこ、行こう」
ぽかんとしている真実に、結子はさらに言った。
「行こう。私が怖がってなんかいないこと、教えてあげる」

 

 


 電車で二駅先の盛り場にあるそのホテルは、ひどくきれいで明るかった。真実も結子もこのようなホテルに来たことがないと言えば嘘になる。互いの恋人とつかの間の時間を過ごすために、ほんの数千円を使ってはどこか気まずい思いで帰ってきたものだった。そして今夜、互いの隣にいるのは、今までのどの相手よりも近しく、どの相手よりも長い時間をかけて愛していて、どの相手よりも禁じられた存在だった。
 結子はコートを脱いでハンガーにかけ、無言で真実のコートも脱がせた。
「まさみのコート、重いのね」
ハンガーにかける手つきが鈍くなる。男物の服は少し重い。
「そうかな」
「男の服だもんね、当たり前よね」
 真実はぼんやりと姉の姿を見ていた。真っ白のセーターにブラウン系のチェックのスカートが似合っている。こんな場所に、俺たちは何しに来たのだろう。こんな場所に。わかっている。盛り場の奥にあるたくさんのラブホテルの一室。薄い壁の向こうから、知らない女の声が聞こえてくるような気がする。
「なにをぼんやり突っ立ってるの。座って」
結子に言われ、真実はベッドに腰かけた。結子もまた真実の隣に腰かける。結子の小さな手が伸びてきて、真実の頬に触れた。
「ゆ……」
真実の唇に結子のあたたかい唇が押し当てられる。微かにコーヒーの香りがした。結子の匂いが押し寄せてくる。ほんのわずかなコロンと、化粧品の匂いと、結子本人の匂い。その匂いに埋もれたくて、真実は結子を抱き寄せた。誰も見ていない。ここには二人以外、誰もいない。誰にとがめられることもない。
「ゆい……」
結子の耳元でその名前を囁く。小さなピアスが光る耳たぶに、そっと指先で触れる。指で触れて、唇を寄せた。
「まさみ」
「うん」
「まさみ……好きよ」
結子の細い指が真実の髪をふわりと撫でる。何度も撫でて、髪や、耳や、首筋に、指先のあたたかさを感じた。
 真実は夢の中にいるような気分になった。それでも時折、頭の中にちらちらと自宅のリビングや庭、両親の顔が浮かんでは消えた。
「……ゆい」
唇を離して、身体を少しだけ離す。
「こんなことして、本当にいいのか」
「やっぱり怖いのね」
「そうじゃない」
結子は答えずに、真実の唇に噛みついた。舌が入ってくる。甘くて苦い、真実の望んだ味だ。
「ゆい」
「まさみと別れる方が、私は怖いの」
 何度も何度もキスを繰り返して、二人はその感触に慣れた。互いの味に慣れた。子どもの頃から知っているはずの匂いが、すぐ間近にあると意外にも知らない匂いだった。
「別れるなんて」
真実は結子の匂いを全身で感じながら、結子の細い身体を抱きしめる。別れるなんて、どうしてそんなことを言うのか。一生、そばにいたいのに。誰にも渡したくないのに。
「まさみ、家から出ちゃったら、そのままいなくなるような気がする」
「なんで」
「あんたって思い詰めるから、自分だけで勝手な結論出して、俺は消えるとか言いそうだから」
心の底で密かに考えていたことを炙り出されたようで、真実は少し震えた。そうしようとしていた。このまま出て行って、姉の前から姿を消してしまおうかと。
「だから、抱いて」
結子は真実の手を取って、自分の胸に押しつけた。柔らかすぎる感触に、思わず手を引こうとしたが、それは許されなかった。
「これはまさみのものなのよ。触って」
「いや、でも」
「あんた以外の誰にも、もう触らせたくないのよ。お願い」
「ゆい……」
「お願い、触って。抱いて」
結子の視線は驚くほどに強かった。彼女のこれほど真剣な表情は、真実は見たことがなかった。その瞳には、微かに涙がたまっている。
「泣いてんのかよ」
結子はそれには答えず、真実に抱きついた。背中に回された手は、もうためらいを感じさせない力があった。真実はじっと目を閉じて、目を開く。心臓が口から飛び出しそうだった。自分がこれからしようとしていることが、いいことではないとわかっている。けれども、どこの誰が審判を下せるのか。神か、仏か。そんなものは信じていない。知ったことではない。ただ、目の前の結子が、ほしくてたまらなかった。
「……絶対、ゆいの前から消えたりしないから」
「約束してくれる?」
「約束するよ、だから」
真実は、大きな手を結子の腰にそっと回した。
「ゆいの中に、入りたい」
 白いシーツの海に倒れこんでいく結子が、ほんの少しだけ笑ったのを、真実が見ることはなかった。

 

 

 長い時間が経過したように思ったが、時計を見たら一時間半ほど経っただけだった。真実はぼんやりと天井を見上げ、つい今しがた自分たちに起こったことを、遠い昔のことを思い出すように考えていた。
「まさみ、後悔してるの?」
結子が目を閉じたまま、真実の胸の中で呟く。
「いや、まさか」
「後悔して、ゆいの前から消える、とか言わないでしょうね」
「言わない、絶対」
言いたくても、言える自信はない。たった一度抱いただけで、真実は結子の身体に夢中になった。結子もまた、信じられないほどの充足感に包まれていた。
「まさみ……もっと」
結子は真実の胸に手を回して、身体を押しつけてくる。ため息が甘い。しかし真実は時間が気にかかっていた。
「俺もだけど、もう結構遅いよ」
「何時なの」
「十時前、当然だけど夜の」
「家、出てくるときに何て言って出てきたのよ」
「ゆいと飯食ってくるって」
「ばかね、なんで友達んちに行くとでも言わなかったのよ」
「だってまさかこんな……」
「ばか」
 結子が真実にキスをする。小鳥のような小さなキスが、深く激しい大人のキスになる。互いの唾液の味までも覚え、愛おしく感じる。もっと、もっとほしい。骨の髄までほしい。暗い穴に入っていくみたいに、真実はもう一度結子の身体をベッドに押しつけた。触れて、舐めて、齧ってを繰り返し、とろけるような心持ちになる。
「ゆい……また挿れてもいい?」
「……うん」
急いで避妊具をつけて結子の中に入る。入ってみると、熱いような、あたたかいような、狭くて苦しくてすぐに出てしまいたいような、不思議な感覚がある。最初に入ったときもそうだった。
「ゆいの中、ものすごく気持ちいい」
「まさみのも、私にぴったり」
「気持ちいい?」
「すごく……あ」
結子が強く目を閉じると同時に、真実を強く締めつけてくる。締められる感触が猛烈に快くて、真実はそれだけで幸せを感じた。どうしてこんなに気持ちがいいのか、大して多くの経験があるわけではないのに、他の誰とも違う気がする。他の誰も、ここまでの快感はない気がする。真実は、結子の中で暴れ回った。この時間が終わらないでほしいと心から感じた。時間など止まってしまえばいいと。
「ゆい……好きだ……」
「……う、ん」
「離れるくらいなら、殺す」
「私も、そうする」
 溶けてしまいそうだった。結子の中は熱くて真実には耐える力はなかった。してはいけないことをしていると、いつの間にか忘れた。この世で唯一の人に出会えたのだと、喜びを感じるほどだった。心も身体もすべてがぴったりと重ねられる相手に出会えたことが、どうして悪いことなのかと思った。ジグソーパズルの最後のピースのように、鍵と錠前のように、これでなければ間違っているという存在だ。これでいい。この相手がいい。これでなければいけない。何が悪いのか。もう誰にも邪魔はさせない。誰の文句も言わせない。
「ゆい、愛してる」
結子は真実の目を見つめて、こくりと頷く。紅潮した頬が愛らしくて、真実はその頬に口づけた。
「私も、愛してる。まさみじゃなきゃ嫌だ」

 

 

 互いを互いの心と身体で縛りつけ、意思は弱り、家に帰る気持ちもなくなった。二人が我に返ったときには、既に早朝になっていた。

 

 

 

 

 

【小説】9 永遠に終わらない冬

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 空には星が輝いているのに、二人は地面を見つめて歩き続けた。本当に寒くない冬だ。今夜は特にあたたかい。小さな声で、ぽつりぽつりと話しながら、真実と結子はゆっくりと家路についていた。ただただ、ぽつりぽつりとにわか雨のように、密やかな会話が互いの足元に落とされるばかりだった。誰にも聞かれてはならない会話が。
「ほんとに、好き?」
「俺は好きだよ」
「私たち、お互いに好きなんだね」
「褒められたことじゃねえよな」
「でも、私も好き」
結子の細い指が、ほんの少しだけ真実の手に触れた。真実は急いで手をポケットに隠した。
「俺が好きだって言ったからじゃないかな、それは」
「どうして」
「俺が言わなければ気付かなかったんじゃないか」
「そうかな」
「そうだろ」
「そんなことない」
徐々に強気になってくる結子の態度が、真実には怖かった。結子が急流に飲まれていく。そうさせたのは真実自身だった。後悔が後悔を呼ぶ。
「何でだよ」
「私、真実に彼女ができるの嫌だった」
「だからいないだろ。他の女に興味がないんだ」
「でも普通、きょうだい同士なんてそんなこと干渉するかしら」
「俺なんか姉ちゃんに彼氏ができるたんびにムカムカしてたんだ。別れてくれるとすっきりした」
言わなくてもいいことを言ってしまったと真実は思う。しかしどこか投げやりな気分もあった。言い出したのは自分だ。正直に言ってしまえと。
「そう、なの」
「なんだよ。『ひどい』とか言わないのか」
「別に『ひどい』って思わないから」
「じゃ、どう思う」
「嬉しい、と思った」
「弟が嫉妬してたのが嬉しいのか」
「うん」
「それこそ『ひどい』な」
「私は始めは意識がなかったかもしれない。でも真実がかっこいいっていつも思ってて」
「かっこいい、か」
「あんた顔もいいし、背も高いし、力も強いし、勉強だってできるでしょ」
「そんな男は腐るほどいるだろ」
「でも私には真実が一番かっこよかったのかも。いつの間にか」
「光栄だよな」
「だけどそんなこと、自分で認めるのも嫌だし。だからきっと見ないふりして」
「そ、か」
「好きだった。きっとずっと前から」
「家の中でのだらしない姿とかガキの頃のべちょべちょ汚い姿とか見てきたくせに、今さらかっこよくなるのかな」
「そんなのお互い様よ」
 結子の肩が、歩くたびにトン、トン、と真実の腕に当たる。その近過ぎる距離と感触が不意にたまらなく、我慢できなくなった。
「姉ちゃん、気持ちはわかるけど」
「何よ」
「なんていうか、空気がやばい」
「空気って」
「その、ちょっと離れて歩こう」
「何で」
「俺の気持ちもちょっとはわかれよ。俺たち恋人同士じゃないぞ」
「あ」
結子は初めて気付いたように、小さな手を口に当てた。
「こういう会話の行き着く先って、わかってるだろ」
「ごめん…」
「俺と姉ちゃんは恋人同士にはなり得ないんだよ。なっちゃいけないんだ」
「そうだね」
「確かに言い出したのは俺だよ。本当にごめん。許されないことだってわかってる」
「う、ん」
言われた通り、結子は数センチ程度だけ離れた。
「でもどうしても抑えられなくて。抑えられなくて、抜き差しならないとこまできちゃったな」
「そうなのかな」
「だから姉ちゃん。ちょっと離れて」
「もっと離れるの?」
「もうちょっとでいいから。きょうだいの距離だよ、わかるだろ」
「わかんないよ、もう」
 真実がすっと離れると、結子は磁石のように寄ってくる。手で押し返して距離を取ると、結子のバッグが飛んできた。
「いてっ」
「わかんないわよ、そんなの。何がきょうだいの距離よ。自分が壊したくせに!」
「しっ、声がでかいよ」
「悪かったわね、感情的で。真実、あんた一体どうしたいわけ?」
 時間はまだ遅くはなかった。再び家の近くの公園まで辿り着いたので、真実は結子を促して入った。二人はベンチの端と端に座り、間に結子のバッグを置いて同時に溜め息をつく。

 

 「壊して、ごめん」
真実は、思ったままに口にする。
「別に姉ちゃんをどうこうしたいなんて、変なこと思ってるわけじゃないんだ」
「思ってたら洒落にならないわよ。私たち本当のきょうだいなんだから」
空を見上げると、冬の星座が綺麗に出ていた。星の美しさにしてみれば、自分はなんて汚いのだろうかと真実は気分が悪くなる。
「言うべきじゃなかったけど、我慢できなかった」
「言ってどうするつもりだったのか知りたい」
「ただ、ずっと一緒にいたかった」
「ずっとって?」
「姉ちゃんが、一緒にいてもいいって、許してくれる限り長く」
「一生いていいって言ったら」
「一生そばにいたい。今まで通りみたいな生活してさ。一緒に飯食って、遊びに行ったりして、俺が荷物持ちして…」
じわりと真実の目から涙が溢れてくる。そう、たったそれだけの小さな願いごとから始まっていたのかもしれない。一緒に食べるご飯の美味しさ、一緒に歩いて笑ったり喧嘩したりする時の信頼し切った愉快さ、姉の荷物持ちをしたり召し使いのようにこき使われることの何とも言えない特権の気分。他の男には決して許さないであろうだらしない姿がお互いに見られ、それを何とも思わず素通りできてしまう日々。こんな他愛無い小さな願いごとが、『恋』という形に変貌してしまった。いつの間に恋になってしまったのだろう。真実にも、それはよくわからないままだった。
 「一生、そばにいていいよ」
結子は消え入りそうな声で呟いた。
「え、なに」
「一生、そばにいて。出ていかないで。結婚もしないで」
真実にとっては願ったりかなったりの言葉だったが、手放しで喜ぶことなどできはしない。
「俺は最初から結婚するつもりなんかない」
「だからそれでいいじゃない。私も結婚しない。ずっと二人でいよう」
「周囲が変な目で見るぞ」
「そんなのどうでもいいわ」
何がいけなかったのだろう。何を間違えたのだろうか。どうして実の姉に恋などしてしまったのだろう。誰にも、祝福されないのに。
「姉ちゃん、落ち着けよ」
「無理よ。だって」
「誰かが通ったら」
「だって、あんたのこと好きなんだもの」
「言うなよ」
「あんたから言ってきたのよ、私だって言わせて」
結子の小さな手が、真実の腕を強くつかんだ。
「好きよ…あんたのこと、すごく」
目の前に迫る黒い瞳が、真実の大して固くもない我慢の壁をあっけなく突き崩す。触れてみたい。この白い頬に。赤い唇に。自分だけのものに、してみたい。
「…俺が、悪いんだ」
「そうよ、あんたが悪いのよ」
「全部、俺のせいにすればいい…」
真実は姉の頬にそっと指で触れた。滑らかで丸みのある感触に、めまいを覚える。頬に触れ、まぶたに触れ、耳に触れてみる。あたたかくて柔らかだった。
「悪いのは俺だけど、秘密は絶対に守れよ」
「まさ、」
名前を呼ぼうとする姉の唇を、真実は静かにふさいだ。甘い、と、思った。甘くて、ひどく苦い。あんなにも望んでいた姉の唇が、今、自分に触れている。どうすればこの嵐から抜け出すことができるかと、真実は心の闇を彷徨った。結子の唇も、手も、かわいそうなほどに震えていた。
 心臓が大きな音を立てている。このまま壊れてしまうかのように。長い腕で結子を強く抱きしめ、真実は目を閉じた。もう、死んでしまいたい。このまま二人で。
「…好きだよ、ゆい」
ふざけたときだけたまに呼ぶ、姉の名前。好きだ。自分は実の姉を愛している。女として。彼女のすべてを自分のものにしたい。真実の身体中を暗い欲望が渦巻く。それなのに、自分を汚いとは思わない。つい先ほどまで自分は汚いのだと思っていたのに、なぜかその気持ちがなくなっていくのを感じた。
「真実…」
結子の指先が、真実の前髪に触れた。くすぐったい感触に、真実は思わず目を閉じる。その隙に結子は真実に口づけてきた。
「あんたが、好き」
触れたままの唇が微かに動く。冷たい風が吹いてきて、二人の頬を叩いた。
 冷えていく真冬の空の下、頬を寄せ合って涙を流していた。あたたかい涙だけが、二人の心を溶かす。時折交わす口づけは徐々に深くなり、熱でとろけたチョコレートのような甘みで二人を誘惑した。触れ合った指が、ゆっくりと恋人の動きになっていく。戻れなくなったと、真実は感じた。これが今日だけの、姉の気まぐれであったならと心から願った。けれどもそうでないことが、結子の絡め合った指先から強く伝わってきた。
 家に帰って、どうやって親と話したのか、どうやってきょうだい別々の部屋に入っていったのか、真実も結子も覚えていない。ただ一つだけ覚えているのは、明かりを消し真っ暗になった互いの部屋の前で、ほんの少しだけキスをしたことだけだった。もしも両親に見られたら。そのような気持ちがあっても、もう止められなかった。ただ引き寄せあうように、互いの唇に触れた。

 

 正月休みが終わり、結子の仕事が始まった。真実はまだ始まらない大学の授業を前に、勉強をすることもなく友達と会うこともなく暇を持て余していた。
 母と二人の昼食を終えて二階に上がり、自分の部屋へ入ろうとして、ふと結子の部屋のドアが微かに開いていることに気付く。そのドアを閉めようとして、真実はドアノブに手を伸ばした。薄暗いはずの部屋が明るい。中を覗いてみると、デスクのスタンドがついたままだ。
「まったく、だらしねえな」
スタンドの電源を消そうと、姉の部屋に入る。入った途端、真実は後悔した。入らなければよかったと、なぜか思った。どこを見ても、どこに触れても、そこには姉が息づいている。あと数時間もすれば帰宅する結子の姿を思い、息が詰まった。
 デスクの脇の引き出しを、何の気なしに開けてしまった。かたりと音を立てて開いた引き出しの中には、少し分厚いノートが入っている。その装丁から、女性向きの日記帳であることはすぐにわかった。
「勝手に見るのかよ、俺は」
ぼそりと呟き、震える手で結子の日記帳に手を伸ばす。少しだけ、少しだけだ。何も見なかったことにすればいい。結子の少し乱れた筆跡を目で追い、真実はぱらぱらとページを繰った。
 思わず手が止まったのは、初めてキスをした夜の日記だった。音を立てて、日記帳を閉じる。引き出しに戻す。それなのに、もう一度手に取ってページを開く。罪悪感が押し寄せてきた。
「ごめん、姉ちゃん、ちょっとだけ」
少しだけ。少しだけと心で繰り返しながら、真実はあの夜の日記に目を通した。


『一月二日

 さっき公園で、まさみとキスをしました。
 怖かった。身体が震えました。でも、嬉しかった。いつまでも抱きしめあっていたかった。どうして時間は止まらないのかと、憎くなりました。時間が止まって、季節も止まって、周りの人は誰もいなくなって、私たちが姉と弟であることを知っている人はみんないなくなって、自由にキスしたいと思いました。
 まさみの、彼の唇はとてもあたたかくて、柔らかくて。私はいつもそばにいたはずのに、知らない男の子がそこにいました。まさみは今までに、他の女の子と付き合ったことは何度かあるはず。その女の子たち、みんなに嫉妬します。タイムマシンに乗って過去に戻って、その子たちとの仲をなかったことにしたい。
 私は、彼が好きです。胸が痛くなるくらい、愛してしまいました。まさみが私を好きだと言ったからだと思っていたけれど、そうではない。きっと私もずっと前から好きだった。胸が痛い。苦しい。
 会いたい。すぐ目の前の部屋にいるのに。行こうか。寝顔を見に。もっともっと彼を抱きしめて、キスをして、彼の腕の中で、』


 自分自身への愛を綴ってある文字に真実は夢中で読みふけりそうになったが、急いで日記帳を閉じた。これ以上、読んではいけない。姉の心を覗いてはいけないと、真実は日記帳を引き出しに戻し、スタンドの明かりを消して結子の部屋を出た。
 外へ出ようかと部屋でコートを着かけたけれど、やはりそのような気分になれず、コートを脱ぎすて自分のベッドに横になる。
「…ゆい…」
唇から、結子の名が零れ落ちる。もう「姉ちゃん」と呼びたくはなかった。もう、姉ではない。姉だった結子は、いつの間にか唯一の女性となった。誰にも渡したくない、渡すくらいなら殺したほうがましだと思うほどに愛していた。引き離されるくらいなら、親だって殺すかもしれない。だから、決して知られてはいけない。気付かれることがあってはならなかった。
 真実は携帯電話を取り出して、結子にメールを打った。何度も何度も入力しては消して、迷いながら送信した。
『ゆい、仕事何時に終わる? 公園で待ってるから』
好き、の一言も打てなくて、度胸のなさに泣けてきた。結子からは、五分とたたずに返信がある。
『五時で終わるよ。公園寒いから、駅前のカフェで待ってて』
真実が了解の返信を送ろうとしたところに、もう一通メールが届いた。
『まさみ、好きだよ』
 気が遠くなる。死ぬほど、会いたい。今すぐに結子を抱きしめたい。抱きしめて、キスをして、そして。真実は携帯電話を放り投げ、ベッドの上で頭を抱えた。好きだよ。もちろん、俺もだ。俺のほうがずっと、お前が俺を好きだと思う気持ちよりもずっと、強く強く好きだ。嬉しいのか、悲しいのか、情けないのか、じわりと涙が溢れてくる。思いが通じ合ったのに、こんなにも胸がふさぐ。
『ゆいが好きだ。愛してる』
真実は自暴自棄になった気分で、メールを送った。結子からの返事は来なかった。
 二人で消えたい。どこか遠いところへ。真実は涙を拭って、ぼんやりと天井を見つめた。ぼうっと浮かんでくるのは、結子の美しい横顔だった。

 

 

 

 

 

 

【小説】8 永遠に終わらない冬

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 二人して立ち止まっていても、他人に見られればおかしく思われてしまう。真実は動揺する気持ちを何とか取り戻そうと、結子に「行こう」と声をかけて歩き始めた。結子も黙って横に並ぶ。行こうと言っても行く当てもなく、ただとぼとぼと真冬の夜道を歩くだけだった。雪国であったら歩くことすらできないが、ここは都会であり今年は暖冬だった。
「寒いだろ、もうずっと歩きっぱなしで」
「うん、寒い」
「どこかでお茶でも飲もう。でないと本当に風邪引いて、仕事始めから休むことになるぞ。かっこ悪いだろ」結子は小さな声で「そうね」と素直に答えた。街灯に照らされた横顔に、今は涙はなかった。けれども明るい場所へ出てみれば、結子本人にとってあまり披露したくない顔だろうなと真実は想像した。恐らく目は赤く、頬には涙のあとがくっきりと表れているだろう。
 もうしばらく歩けば、大きなターミナル駅に出る。いくらでも店はある。都会は便利だと、真実はありがたく思った。逃げようと思えば、いくらでも家から逃げられる。どうせ帰宅しなければならないのだ。姉と共に、同じ家へ。真実はもう何度目かわからないくらい、たくさんの溜め息をついていた。結子に聞かれたらいけないと、息をひそめてつく。溜め息をつかざるを得ない状況を招いたのは自分自身だというのに、つい口から漏れてきてしまう。
「お酒でも、飲もうか」
結子は魂の抜けたような声で呟く。何のやる気も起きないといった風情だ。
「こんなときに酒はやめといたほうがいいんじゃないか」
「こんなときってどんなときよ」
「だから、今みたいな何となくやばい感じのときだよ」
「やばいときだから飲んだほうが無難じゃないのかしらね」
「どうして」
「私たち、しらふで話すほうがずっとやばいわよ」
真実は結子の気持ちがわからないでもなかった。酒が入っていれば、うっかり妙なことを口走っても酒のせいにできる。けれどもまともな頭で話せば、それだけ言葉の中身は重くなる。だからといって、酒を飲んで現実逃避してごまかすことが良いとも思えなかった。
「やめとこうよ、酒は」
「嫌がるのね」
「今飲んでも美味くないと思うよ。それより姉ちゃんの好きな甘いもんでも食ったほうがずっと気持ちは落ち着くと思う」
甘いお菓子は一時的な精神安定剤になるのだと、大学の友だちに聞いたことがあった。甘いものが苦手な人にとってはその限りではなくても、好きであれば意外と効いているのだとか。疲れ切っているときに飴一個でほっとするのと似たようなものだろうかと、真実は想像していた。今の結子の気持ちは、不安定どころの騒ぎではないはずだ。酒など飲ませたら、悪酔いして大変なことになりそうだった。それよりケーキの一つや二つでも食べさせたほうがずっと安全なのではないかと思えた。
 多少値段は高いが、中は落ち着いていてコーヒーもケーキも美味しい店を選んで入る。いつもならば嬉々としてメニューに向かうはずの結子だが、今日はさすがに元気がない。たくさん並ぶケーキの写真をぼんやり眺めるばかりだ。仕方なく、真実は一つずつ写真を指差し、これは好きか、ならこれはどうかと確認していった。そして結子が食べられそうなケーキを二種類選び、コーヒーと一緒にオーダーする。
 目の前に置かれたきれいなチョコレートケーキを、結子はぼうっと見つめていた。
「ほら、一口でも。少し疲れ取れるから」
真実はフォークを取って結子に差し出した。結子はフォークを手にして、のろのろとケーキに突き刺した。ほとんど黒に近い焦茶色の一角が、脆く崩れる。中からクリーム色のスポンジケーキとチョコレートクリームが顔を覗かせる。
「ここのチョコレートケーキ、好きだっただろ」
こくりと結子はうなずき、肩を落としたままでケーキを口に入れた。小さな口が上下に動く。すっかり口紅が落ちてるなと、真実は思った。店の照明はかなり落としてあるけれど、それでも姉の化粧が崩れているのがわかった。あれだけ泣けば化粧も落ちるだろう。結子は化粧などしなくても美しいと真実は思っている。もとより真実は、女性の厚化粧が嫌いだった。結子は化粧をしてもしなくてもあまり顔は変わらないので、無理して毎日しなくてもいいのにとも思っていた。一度そのように言ったことがあったが、「いい年した女が化粧もせずに会社に行けるか」と怒鳴り返された。紅の落ちた唇の中に、一口、また一口と、少しずつゆっくりとチョコレートケーキが運ばれていく。食べる気分になってくれて良かったと、真実はほっとした。

 

 実のきょうだいがお互いに恋をしてしまうなどということがあるのだろうかと、彼はふと考えた。真実とて、何もせずここまできたわけではない。自らが陥っている精神状態に問題があるのかと、大学の図書館で心理学の文献を漁ったりしたこともあった。しかしどれを読んでもどこかで聞いたことのある有名な専門用語やその説明が書いてあるばかりで、全くピンとこなかった。むしろこんなことは授業で聞いて知っていると、反発を覚えるほどだった。
 手に取ってみた本の中で、反発と同時に激しい疑問がわき上がってくるものもあった。人間の精神には、幼い頃から密着して共に過ごしてきた人に対しては、異性として意識しないようなメカニズムが組み込まれているとの意味が書いてあった記憶がある。そんなことはおかしいと思った。真実は、人間の全てが一つの型にくくられてしまうわけがないと思った。絶対にあり得ないとひどく感情的になったりした。
 存在しないわけが、ない。確かに少ないかもしれない。けれども、ずっと一緒に育ってきたきょうだいに対して恋の気持ちを抱いてしまう人が、この世に存在しないわけがない。きっと隠されているからだ。家庭の中で、厳重に施錠して隠されているからだ。だから学者とかいう偉い人たちも、うまく研究ができないのだ。そうとしか、真実には思えなかった。
 口をつけたコーヒーは、苦かった。モンブランに渦巻く螺旋状のクリームを見て、目が回った。螺旋を崩したくて、フォークを突き刺し一口食べてみる。口に飛び込んできた突然の甘みに、舌がじんと痺れた。
「これも食うか」
結子に向かってモンブランの皿を押し出すと、彼女は首を傾げて「後で」と言う。
 客の少ない静かな店内に、誰もが知っているショパンのワルツが流れている。結子も真実も幼い頃からピアノを習わされていた。高校時代にやめてしまったが、今流れている曲は二人とも弾くことができるはずだ。
「私よりもあんたのほうが、上手かったわね」
結子はうつむいてケーキをつついたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「何が」
「ピアノ」
「別に上手くなんかなかったと思うけど」
「私よりもずっと手は大きいし力も強いから。練習してれば上手く弾けて当たり前なのよね」
確かに、結子の手は小さい。今日、改めて小さいことを実感した。指輪のサイズが証明していた。
「オクターブが届かなくて苦労してたのに。真実は軽々弾いてて悔しかった」
「そのかわり姉ちゃんは速く弾くのが得意だっただろ」
「まあね」
カチャンと音を立てて、フォークが皿に乗せられる。チョコレートケーキは全て結子のお腹の中に収まった。甘いものを食べて落ち着いたのか、彼女の顔色は少し良くなっていた。
「あんたの手があんなに大きくて馬鹿力だとは思わなかったわ」
「馬鹿力って」
「骨が折れるかと思った」
指輪を買った帰り道、カフェでわざと力を入れて握手してみせたことを思い出す。たとえ弟であっても男を軽く見るなという警告のつもりでしたことだ。そして真実にとっては自分自身への警告でもあった。姉はこんなにも小さくか弱いのだから、命懸けで守ることはしても傷つけることをしてはならないと、自分に向かって言い聞かせていた。
 しかし力は制御できても心は制御できなかった。だからあの日、好きだと言ってしまったのだ。腕力で傷つけることはしていなくても、結子の心を傷つけている。真実は、なぜこの思いを抑えることができなかったのか、自らの意思の弱さを悔いた。
 俺ってガキだなと、真実はそっと呟いた。大人の男なら、きっとこの程度のことは我慢するに違いない。この程度…実のきょうだいを好きになってしまう程度。この「程度」が他の人にとっていかほどの重みがあるのかわからないが、とにかく自分がやってしまったような失態はおかさないに違いない。いや、ガキだとか大人だとかの問題だろうか。要するに自分自身が意思が弱いだけの問題か。

 

 真実は自らを嘲笑した。本当に小さな声を出して笑った。結子は眉をひそめて妙な表情を見せた。
「何よ」
「俺、バカだよな」
くすくすと笑う声が、真実の口から漏れる。
「あんまりバカだからさ、やっぱり姉ちゃんのそばにいるべきじゃねえよな」
「な、何よそれ」
「俺ってあの家にいちゃいけない男なんだよ、きっと」
真実は笑うのをやめて、ふと真顔になった。
「家、出ようかな」
結子はぱっと顔を上げて、目を丸くした。
「何それ、どういう意味よ、一人暮らしでもするつもりなの」
「うん、それが一番いいと思う」
「家を出て、バイトでもして生活費稼いで、そのまま結婚してとか、お決まりのコースってこと」
結子の言葉を聞いて、真実は胸がずきりと痛んだ。そのまま結婚して、お決まりのコース。確かに男に多いケースだと思う。大学時代に実家を出て一人暮らしを始めて、恋人を見付けて、別れたりまた新しい恋人を見付けたりしてを繰り返しながら就職して、大人の階段を上がりつつ結婚をする。本当によくあるケースだ。しかし、真実にとって実家を出るところまでは何とかできたとしても、新しく恋人を見付けるなどということができるだろうか。心の中で「できない」という即答が響く。
「バイトしたりして大学卒業して、就職して、その程度だよ」
「恋人や結婚が抜けてる」
「どうしてもそれ入れなくちゃいけないのかよ」
「男が家を出て行くときってそういう要素が大いに含まれるものだけど」
真実はコーヒーに口をつけた。熱かったコーヒーが、かなりぬるくなっていた。
「今はその要素は考えられない。でもおいおい考えられるようになればいいだろ」
「今、考えられない理由って」
「言う必要ないだろうが、今さらだよ」
「おいおい考えられるようになればって」
「そうしないと、姉ちゃんに迷惑かける」
 結子の目の前にある空になったチョコレートケーキの皿と、ほんの少し口をつけただけのモンブランの皿を、真実は取り替えた。
「ほら、それも食えよ。美味しいから」
「イヤ」
「なんでだよ、モンブランも好きだろ」
「真実が家を出ていくなんて嫌よ」
「えっ」
モンブランは食べるけど、あんたは家にいるって約束して」
真実はまた結子の思考回路のジャンプが始まったと思って、首を傾げた。
「あのさ、モンブランと俺の一人暮らしと何の関係があるんだよ」
モンブランは好きだから食べる」
「それと俺の一人暮らしは関係ないだろ」
「なくてもいい。とにかく家にいて。でなきゃ私が一人暮らしする」
モンブランの螺旋で感じるよりも激しい目眩がしてきた。結子の思考は本当にわけがわからない。
「なんでそこで姉ちゃんが一人暮らしすることになるんだよ」
「私の方が経済力あるから」
「そういう問題かよ」
「そうよ、あんたに一人暮らしなんか無理よ。家にいて」
怒ったようにがつがつとモンブランを崩して、結子は呟いている。ゼッタイヤダ、ゼッタイヤダと微かに聞こえてくる。どうしてそんなに嫌なのか。どうしてそんなに。
「何がそんなに嫌なんだよ」
結子は口をつぐみ、モンブランをもぐもぐと食べている。
モンブランとも一人暮らしとも関係ないだろ、姉ちゃんの言いたいこと。何なんだよ」
こくりと喉を鳴らして、結子の腹の中にモンブランが収まっていく。真実は携帯を取り出して時間を確認した。まだまだ帰宅すべき時間まで十分あった。
 客は少ない。ざっと見渡して、三組。いずれも遠く離れている。もちろん知った顔はない。BGMは相変わらずショパン、どうしてショパンばかりなんだ。真実は別にショパンが好きなわけではなかった。きっとBGMに合うからだろう。きらびやかなピアノの音色に、真実は何故だか投げやりな気分になった。
「言っちゃえよ、もう。俺が何なのか。どう思ってるのか。姉ちゃんの感じてることを全部ぶちまけちまえよ」
「言ったって何の解決にもならないじゃないの!」
「声が大きい」
「冷静ね」
「姉ちゃんから返ってくる答えがわかってるからだよ」
「答えてないのにどうしてわかるのよ」
「ここまできてわからない俺って、物凄いバカだと思うけどな」
真実は水をがぶりと飲んだ。氷水が冷たい。頭が冷える。
「姉ちゃん、さっき道端で言ったよな。姉ちゃんも俺と同じこと思ってたらどうしようって想像しなかったのかって」
結子は鈍くうなずいた。
「その上、俺に家を出て行くなって、これ以上の答えがあるかよ」
「あるわよ」
「なんだよ」
「私、決定的な一言は言ってない」
一瞬、真実は興醒めしそうになるところだった。だが、この姉の反応が可愛らしくてどうしようもなくて、笑えてきた。自分よりも大人だと思い込んでいた姉は、信じられないほど『少女』だった。『女の子』だった。
「だから、言っちまえよ、それをさ」
「だから解決になんか」
「なるよ、解決に。今この瞬間の解決ができる。何もかも全部まとめて解決しようとするから混乱するんだ。一個ずつ解決すればいい」
「でも」
「泣くな。泣くなら外に出てからにしてくれ」
 真実の心は、ひどく冷えていて、怖いほど静かだった。目の前の『姉という名の女の子』を前にして、とても冷徹な気持ちになっていた。自らがその立場に立たなければ、彼女の相手はできないと心の底から感じた。決して結子の感情に引きずられてはならないと思った。真実が結子を引きずり回しているように思っていたのに、本当は結子が真実を引きずり回していたのかもしれない。

 

 「言えよ、言いたいこと。言っちまえよ。誰も聞いてない。俺以外」
「そんな。どうしてそんなひどいこと言うの」
食べかけのモンブランの残骸が、結子の最後の砦に見えた。可哀想なほどに崩れ果てていた。
「どうして俺がひどいんだ。何かひどいこと言わせようとしてるのか」
「そうでしょ、ひどいわよ」
「だから何がひどい。俺は何を言わせようとしてるんだ」
「ひどいことよ。世界一ひどい」
モンブランの一角が、触ってもいないのに小さく崩れてぽとんと皿に落ちた。
「世界一ひどいことって、なんだよ。俺に教えてくれよ」
結子の心身はぴりぴりと緊張していた。真実にはそれがありありと伝わってきて、苦しくなった。しかし、ここまできたらやめることはできない。
「教えてくれよ。世界で一番ひどいこと」
 結子は、何分かの重い重い沈黙の後に、口を開いた。


「私が、真実のこと、異性として好きになってるってこと…」


 ショパンの華やかな音楽に似合わない『世界で一番ひどいこと』が、結子の口からぼんやりと告げられた。真実は、目を閉じて深く溜め息をついた。
 嬉しくもなく、辛くもなく、ただ積もり積もった疲労から多少なりとも解放された、真実はそんな思いに満たされていた。