ぼたもち(仮)の重箱

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ニーバーの祈りに思う ~自分を変える勇気、変わらないあなたを受け入れる冷静さ、互いの境界線を見極める知恵~

 アメリカの神学者ラインホールド・ニーバー(1892-1971)という人が、ある日の礼拝の説教で、こんなお祈りをしたという。

 

神よ、

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

(大木英夫 訳)

 

 

 

 「ニーバーの祈り」と言われていて非常に有名だ。なんとなく聞いたことのある人もいると思う。私も幼い頃からぼんやりと知っていた。二十代半ばのことだったか、大木英夫牧師の「主の祈り」という説教集を読んで、こんな風にきちんと訳されている文章を初めて読み、心打たれたことを記憶している。大木牧師の説教は難しいのだが、当時の私をとても慰め励ましてくれたものだったので、同時にニーバーの祈りも頭の中に完全にインプットされた。

 

 英語原文はいくつかあるようで、どれが実際ニーバーが書き残した(言い残した)ものなのか私は知らないが、一番簡単で一番有名なのは、以下のものだと思う。英語のカードやしおりなどのクリスチャングッズになっているので、私も子どもの頃から持っていた。

 

God, grant me the SERENITY to accept the things I cannot change;

COURAGE to change the things I can;

and WISDOM to know the difference.

 



 大木牧師の訳と少し違うのだが、これが最も簡単な表現だし、いろいろなカードに採用されている文もこれが多かったと思う。

 

 この祈り、実は宇多田ヒカルが、歌詞に使用している。初めて聴いたときは、ちょっとびっくりした。2000年の歌らしい。もちろん当時に聴いた。大木訳のニーバーの祈りを覚えたばかりだったので、「おお」と声をあげてしまった。

 

変えられないものを受け入れる力

そして受け入れられないものを

変える力をちょうだいよ

宇多田ヒカル「Wait & See ~リスク~」)

 

 

 とにかく非常に冷静で、知的で、魅力的な祈りの文章なので、多くの人が座右の銘にしていると思うし、私もまたその一人。意味を深く考えなくても、「うん、そうだよね」と言わせてしまうパワーがあるし、深く考える人ならばなおさらだろう。

 

*****

 

 今日、セラピストから薦められた本を一冊、読み終わった。「共依存症 いつも他人に振りまわされる人たち」という刺激的なタイトルの本だ。共依存という言葉は誰でも知っているだろうが、自分がまさに共依存症であるときちんと理解し、自覚し、確信している人はそれほど多くないと思われる。私もこの本を読むまでは、「いやいや、違うし」と思い込んでいた。しかし、実際に読んでみたら、私は共依存症以外の何ものでもなかった。

 

 本の中では主にアルコール依存症の配偶者が共依存症になる場合が非常に多い、そして彼ら彼女らがその症状から立ち上がるには、ということだったのだが、何もアルコール依存症に限らなくても、様々なハラスメントの被害に遭っていてそこに絡めとられてしまった人たちは、多くこの症状に当てはまるのではないだろうかと感じた。モラハラ夫や暴力夫に悩む妻たちのケースなど。また私みたいな高齢の親を介護していると、親との間に困った症状が現れてきたりする(本に書いてある症状がぴったりだった)。

 

 アルコール依存症の人が主なテーマとして書いてあるので、アルコール依存症の患者が集う「AA(アルコホーリクス・アノニマス)」という自助グループのことがしばしば出てくる。そのAAの会合で使用されているのが、ニーバーの祈りらしいということがわかった。そのこともあって、祈りは世界的に有名になったのだそうだが、私はAAとの関連を知らなかったので、「へえ」と驚いたのだった。

 

*****

 

 前置きが長くなったが、ニーバーの祈りについて、である。

 

 変えられるものを変える勇気と、変えられないことを受け入れる冷静さと、そのどちらであるかを見極める知恵をおくれよ、なんて、ものすごくかっこいいことを言っている。かっこいいものだから、あまり内容を考えずに私は座右の銘にしていた(それが果たして座右の銘と言えるのかはともかく)。

 しかし実際は非常に難しく、変えられるものだって変えようとはそうそう思わないし、変えられないものを無理やり変えようと躍起になることがあるし、どちらかを見極める以前の状態が多かったりする。だから座右も何も、なんの役にも立っていないかっこつけの座右の銘だったわけだ。

 

 しかし今日読み終わった「共依存症 いつも他人に振りまわされる人たち」という本で、大きな気づきを得た。共依存は、自らが気づいて自覚しなければ、治すことはできなさそうだ。他者との関係性からくる症状だから、薬でどうにかなるものでもなく、手術で治るものでもない。ただひたすらに、相手(たとえばアルコール依存症の夫とか、暴力夫とか)との関係性の罠にはまっている自分自身に気づき、自分で自分を変えていかなければ、いつまでも同じパターンの繰り返しであると書かれている。

 

 自分で自分を変えていかなければ。

 

 これ、「変えることのできるもの」ではないか?

 変えることのできるものは自分だけだし、相手を無理やり変えようったって、絶対に変わってなどくれないということは、誰もが知っている事実だ。ということは、相手は「変えられないもの」だ。なんだ、そういうことだったのか。

 

 ニーバーの祈りをどう解釈するかは、それぞれの人が自由にすればいい。だから私は私の解釈をしようと思った。

 

 こんな風に。

 

・変えられるもの……自分自身

・変えられないもの……自分以外の他者

・見極めること……自分と他人の境界をごっちゃにしないこと

 

 他にもいくらでも「変えられるものと変えられないもの」の対比は出てくる。大きな世界の問題にもできるし、自然の問題にもできるし、戦争の問題にもできるし、なんにでもできるのだが、最も大きくて重要なことは自分自身の問題なのではないかと感じたのだ。

 

 私はどうやら共依存症の傾向があるらしい。本を読んで自覚した。これはただちに自分を変える方向へ舵を切らねばならないことがわかった。そう思った途端、このニーバーの祈りが頭の中にドカンと出てきた。

 変えられるものは私、変えられないものは他者、見極めなければならないのは、どこからどこまでが自分の問題で、どこからどこまでが他者の問題なのかという線引き。

 自分を変えるには、勇気が必要だ。確かに勇気がいる。他者が変わらないことを受け入れるとき、意外とむかっ腹が立ったりする。そのとき必要なのは冷静さだろう。自分の問題と他者の問題をごっちゃにしがちな私にとっては、どこに線を引くべきなのか、どこまでが私のパーソナルスペースなのか、相手のパーソナルスペースを侵略していないか、そのあたりを見極めるには知恵が必要だ。それも、結構、高度な。

 

 これだけの内容が、ニーバーの祈りのおかげで、ストンと腑に落ちる。

 私は長らく自分を変えられなくて苦心していた。そして他者をコントロールしようとして悩んでばかりいた。コントロールするつもりが、いつの間にか必ずコントロールされる。どうしてこんなことばかり繰り返すのだろう。しかも相手は私の領域にずかずかと入ってくるし、私は相手のことばかり考えて、自分のことはお留守になるばかり。なんたって私は、自分が何を食べたいかということすら、わからないのだ。本当のことだ。

 これ、勇気をもって、変えるところだと思う。勇気を出せば「自分は変えられる」ということを知って、「相手は変えられない」ということも冷静な気持ちで知って、「お互いは違う人間で、お互いに侵略しあってはいけない」ということを知る。知った上で、自分が何を食べたいのか、何を感じているのか、誰かから侵略されていないか、侵略しようとしている人物はいないか、そういうことを見極めていくべきだ。

 

 そうかそうか、そういうことだったのか、ニーバー先生、ありがとう。

 

 セラピストから「自分の面倒を見なさい」と最近よく言われる。今は介護中なので、「お父さんの面倒ばかり見ないで、自分の面倒を見なさい」と。「お父さんの要望ばかり聞いていないで、自分の要望を聞いてあげなさい」と。

 でも、自分の要望ってなんだ。私は自分がやりたいことが、わからない。自分がどんな気持ちを抱いているのかすら、よく見えていない。これは共依存症の典型的な症状のようだ。すぐさま変えるべきだ。気づいてしまったのだから。

 

 これからは、ニーバーの祈りを省略して、「勇気、冷静、知恵!」と頭の中で唱えようと思う。「カレッジ、セレニティ、ウィズダム!」でもいい。心の底から、本当の座右の銘にしたいと思う。勇気をもって自分を変えて、冷静に相手をそのままにしておいて、自分の領域を守るために周囲の様子を見極める。そうして初めて私は自分を守ることができて、自分の面倒を見ることができるようになるのだ。

 

 ラインホールド・ニーバーの祈りは、今日、私にとても大切なことを教えてくれた。

 

 変わるのは、私。変えられるのが、私。変わり続けるのが、私。

 

 さあ、勇気を出して、新しい一歩を踏み出そう。





神よ、

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 




(2019年8月13日、noteに書いたものを転載)