ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

遠藤周作の『沈黙』

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先日これを読みました。
遠藤周作の『沈黙』。
あまりにも有名なので読むのが今とは遅すぎる。
……いやいや読書に遅すぎることはない。
いつ読んでもいいのです。自由です。
若い頃に遠藤周作を読み漁りましたが、テーマの重さに気が引けて、ずっと手を出せないでいたのでした。

感想なんか言えません。
これからカトリック教会へ移動しようとしている私。
隠れキリシタンがどのようにつらく過ごしていたか、イエズス会の宣教師たちがどれほど苦心したか、キリストを信じることにいかほどの困難があったかをまざまざと見せつけられます。
信教の自由のもとでのうのうと教会へ通う私たち。
過去の歴史にここまで過酷な痛みがあったことを、決して忘れてはいけないと感じました。
小説としては非常に読みやすいものでしたが、内容はとても読みやすいとは言えませんでした。
遠藤周作のあの顔から出てくる作品だと思うと、なんだか不思議な感覚に陥ります。
作家というものは「なんでも書ける」のだと驚愕でした。
狐狸庵先生ばかりじゃないんですよね。

私はキリストのために殉教できるような強い信徒ではありません。
踏み絵を強要されれば嫌でも踏むと思います。
そんな自分を「生き残ることだって大事だ」と正当化する卑怯な人間です。
そんな情けない私のことも見捨てずにいてくれるかな、イエス様は。
どうなんだろう。
人間には永遠にわからないことです。

でも『沈黙』の作中で棄教せざるを得なかった司祭たちは、どんなにか苦しかったかと涙が出ます。
司祭ですよ? 神父様です。
キリストのために命を捧げる秘蹟を受けた人たち。
それなのに棄教……
「俺は神を裏切った」と嘆いて苦しんだことでしょう。
なんといっても史実ですからね、このお話。
ちゃんと司祭たちの墓も存在しますから。
でも、だからって地獄行き?
私はそうは思わない……
深い傷と罪悪感を負いながら生き抜くことの意味もまたあるのではないかと感じられてなりません。

ところでwikiを見るとこの作品のタイトル、もともとは違ったそうです。
『日向の匂い』というタイトルだったのですって。
編集者がタイトルを変えさせたとありました。
遠藤周作はなにを思って『日向の匂い』とつけたのでしょう。
読んでいると日向シーンが少ない小説なので、その仮タイトル、なんとも複雑な気がします。
ただ『日向の匂い』では小説が売れなかったかも……

こんな年齢まで伸ばし伸ばしでようやく読めた『沈黙』。
読めてよかったです。
キリストと殉教者、棄教者の痛みを思い起こしながら読みました。
遠藤周作の他の作品も再読したいですね。
今でも印象に残っているのは『悪霊の午後』という小説。
悪魔の話でした。
もう一度読もう。
また買わなくちゃ。

読書は疲れてしまうのですが、またがんばって読もうと張り切っています。



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