ぼたもち(仮)の重箱

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私が教会を離れた理由

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「Ministry 38号」(キリスト新聞社)

 

「改めて“和解”を問う」というテーマで作られた一冊。

その中の番外編「私が教会を離れた理由」が、今回のお目当て。

 

私が教会を離れた理由。

 

なんというセンセーショナルなタイトル。

 

(教会に行っている人にとってはセンセーショナル。そうでない人にははっきり言ってどうでもいいことだろうけど)

 

キリスト信仰を持ち、教会に所属することによって、結果的に手酷い仕打ちを受けてきた仮名の若者たちの手記が三つ。

いずれの体験談も非常に過酷で、読み進めるのがつらく苦しいものだった。

教会でこんなにも苦しめられて、それでも希望を見出しながら「和解」(神と。人と。教会と。そして自分自身と)への道を歩んでいく人々。

他の特集や連載が色あせてしまうほどに、強烈で痛烈な数ページだったと感じる。

 

私は思う。

教会に通う人、キリストを信じている人、これを読んでみろ。

教会の暗部から、目をそらすな。

あなたの通う教会は、「きれい」か?

あなたが尊敬する牧師は、「正しい」か?

あなたの家族である教会員は、「立派」か?

どれも「NO」のはずだ。

 

素晴らしい教会はある。正しい牧師も存在する。立派な教会員や役員もいる。

しかしそれは皆、見た目だけ。上辺だけ。

教会が、罪にまみれた人間によって構成されていることを、私たちは常に忘れてはいけない。

 

正しい人はいない。一人もいない。

主、以外には。

 

教会で虐げられた人々の声を、真摯に聴くべきだ。

いつ、自分がその立場に立つか、わからない。

そしていつ、自分が虐げる立場に立つか、わからない。

いや、もしかして今、誰かを虐げているかもしれない。

自分が最も醜く、最も正しくないのだと、よく自覚するべきだ。

 

 

私は今、物理的に教会から離れている。

長年病気をしているので、通うのに一時間かかる教会は少し遠く、体力的に困難だからだ。

がんばってクリスマスの礼拝に行ければ、ありがたいものだと思っている。

 

しかし何年か前。

私は精神的に、教会から離れていた。

それにはきちんとした理由があり、その理由を聞いた人は恐らく、「それは仕方ない」と衝撃を受けるだろう。

この「Ministry」に寄稿した三人の若者と同様に、私もまた手酷い仕打ちを受けた経験があるからだ。

教会は信ずるに足るところではないと、心底軽蔑した。

 

だが今は、恐るべし「時間薬」の効力によって、心は癒え始めている。

やはりキリストを信じているし、教会というところに愛着もある。

何より、生まれる前から染み込まされてきた教会の空気や、キリスト教的な考え方、そして信仰を、自分に受け入れてやりたいと思うようになった。

 

今の私は、素直に信じている。恐らく。

 

もちろん時間薬だけではなく、多くの助けによってここまで来ることができたのだ。

たくさんの信仰の友や先輩、恩師から助けてもらった。

自らの力で、教会に立ち返ることができたわけではない。

時間が必要、そして援助が必要。

本人にとっては、本当に耐え難い時間なのだから。

 

 

もしも教会から離れた人が近くにいるのなら、あなたにできることはないと思った方がいい。

祈ります、などと言っているなら、最初から何もするな。

黙って祈れ。誰にも言うな。

祈りは然るべき時に、主が聞いてくださる。

簡単に「祈ります」と口に出すのは、偽善にも等しい。

それよりも、その人の真剣な声を聴いてほしい。

聴く気がないのならば、悪い事は言わない。

引っ込んでろ。

 

 

全てのことは、キリストにおまかせするしかないのだから。

 

 

だからこそ、真剣な「影の祈り」こそ尊いと、私は思う。

 

 

 

 

死ぬことなく、生き長らえて

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死ぬことなく、生き長らえて

主の御業(みわざ)を語り伝えよう。

 

詩編118編17節)

 

 

 徳善義和先生のご著書

 

「自由と愛に生きる  『キリスト者の自由』全訳と吟味」

 

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を、読んでいます。

 

この本は、2001年頃に、徳善先生の「ルター原典講読」という公開講座に参加していた私の母が買って、徳善先生から直接このサインを頂戴したものです。

先生は、母に向かって「あなたにはこの言葉をドイツ語で書いてあげようね」とおっしゃって、サラサラと書いてくださったのだそうです。

 

力強い筆跡で書かれてあるのは、ルターの愛誦聖句である詩編の一節です。

 ニヒト シュテルベン、死ぬことなく。

ゾンデルン レーベン、生き長らえて。

ルターは、何度もこんなシーンをかいくぐりながら、生き長らえて死ぬまで、力強く主の言葉を語り続けたのだろうなと思いながら、私は何度もこのみことばを眺めていました。

 

私は不勉強で、ルターの説教を全く読んだことがありません。

もったいない。

この詩編の説教を読んでみたいです。

どんなにかパワーに満ちたルターの叫びが聴けるだろうかと、想像するだけで嬉しくなります。

 

 

このところ、私の病気の症状は、あまり良くありません。

ふと気を緩めると、死にたい気持ちでいっぱいになっています。

とてもつらいときに、偶然にも母がこの本を出してきました。

 

死ぬことなく、生き長らえて。

 

死ぬことなく。

 

私はこの本をすぐに読み始めました。

少し難しいので、読むのに時間がかかりますが、とてもパワフルでハートに突き抜けていくような強力なものを感じずにはいられません。

きっと、ルターがパワフルなのでしょう。

そしてルターの言葉を伝える徳善先生の文章が、さらにパワフルなのだと思います。

 

主の恵みのみを基礎に、神様のわざを伝え続けたルター。

死ぬことなく、生き長らえて、まずルターに出会わなくては。

今さらになって、そんな風に感じました。

学生時代には、ぼんやりと通り過ぎただけだったのに。

でも、何事も遅すぎることはないですよね。

 

 

今後も私は死にたくなるでしょう。

そういう病気だから、仕方ありません。

 

でも、そのたびに、このみことばに出会いたい。

 

死ぬことなく、生き長らえて。

 

 

死ぬことなく、生き長らえて

 

主の御業を語り伝えよう。

 

 

私にできる、やりかたでいいのだから。

 

 

 

 

怒る人と共に怒れ

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(ローマの信徒への手紙12章15節)

 

 

新約聖書の中の、とても有名な一節です。

ここだけ抜き出して取り上げると、感動的。

でも、前後を読むと、意外と厳しいことが書いてあります。

とりあえず今日は、この一節だけのことを。

 

喜ぶ人と一緒になって喜ぶ。

嫉妬深い人間という生き物にとっては、とても難しいことです。

泣く人と一緒になって泣く。

他者の不幸を喜ぶ人間という生き物にとっては、結構難しいものです。

 

まあ、そんなことは皆さんがわかってること。

特に私が言わなくても良いことです。

 

ただ、私はここに、もう一つ付け加えたい。

 

「怒る人と共に怒りなさい。」

 

聖書には書いていないけど、私の実感です。

 

聖書には「怒るな」といった意味の言葉も書かれていますが、人間は怒るものです。

いや、その前に、神様そのものが怒りねたむ神なのです。

神様ですら怒るのに、人間が怒らずにいられるでしょうか。

 

私には、とても怒っている事柄があります。

その怒りは長いこと継続され、次第に私を蝕み、私自身怒りと同化し、怒りの感覚がもはや麻痺してしまいました。

私の怒りを共有してくれる人はなく、私はひとりぼっちでした。

 

しかし、そうではなかったのです。

私の怒りを感じ取り、共に怒り、時に私以上に爆発させ、エネルギーに変えて、私に寄り添ってくれる人がたくさんいることに気付きました。

私はもはや孤独ではなく、共に闘ってくれる人々が、周囲に備えられていました。

 

生きるって、きれいごとじゃない。

怒りも憎しみも、みんな抱えています。

だから聖書にも、多くの憎悪や嫌悪、悲嘆が描かれています。

怒りで苦しむ人にとっての慰めは、共に怒り嘆いてくれることなのです。

その段階を通り越して、慰めすら感じ取れない場合もあります。

それでも、共に怒り、手を取って「私もそう思うよ」と言ってほしいことがあるのです。

 

喜ぶ私と共に喜び、泣く私と共に泣き、怒り狂う私と共に怒ってほしい。

それを本当にしてくれる人は、きっとイエス様でしょう。

でも、イエス様を感じるよりも前に。

 

人間であるあなたに、共感、共有してほしい。

 

もしもあなたの近くに、怒りに燃える人がいたら、一緒に怒ってほしい。

それがどんなにか慰めになるだろう。

根本的な解決がもしもなくても、その怒りを共有してもらえるだけで、どれほどの安らぎがあるかと思うのです。

 

いつかその怒りは時間をかけて鎮められ、ゆっくりと穏やかな波へと変わっていくでしょう。

 

 

怒るあなたは、間違っていない。

私もあなたと共に怒り、嘆きます。

あなたと、一緒にいます。

 

 

あなたが、私と一緒ににいてくれることを、心に感じています。

 

 

 

卒業論文の思い出

大学4年生の頃、私も多くの人と同様に、卒業論文を書きました。

たいそう恥ずかしい出来上がりで、今となっては読み返すような芸当はできたものではありません。

 

最初は、キリスト教の死生観や死と葬儀に関わる問題をテーマにして、教会が死というものにどのように立ち向かっているのか、そんなことを書きたいと考えていました。

そのことを先生に話したら、「ではこの程度のものは読んでおきなさい」と、たくさんの参考文献の一覧表が手渡されました。

 

…とても読みきれませんでした…

 

根性のない私は、「もうこのテーマやめる」とあっさり引き下がり、次に興味のあった青年伝道の問題を取り上げることにしました。

「死と葬儀」から「青年伝道」、どうしてこんなに飛躍するのかわかりませんが、若かったのでもう良しとします…

 

指導教授から「アンケートを実施しなさい、アンケート。きっと面白い結果が出るに違いない」と言われ、回らない頭で考えたのは、

 

・教会に通っている若者

・教会に通っていない若者

上記2種類の信仰への意識の違い

 

…のデータをとってみようということでした。

 

果たして、アンケートは集まりました。

300名近くの若者(18〜25歳くらい)たちの貴重な意見を手にすることができました。

協力してくださったたくさんの友人たちに、ろくなお礼も言わないで…

 

集まったデータをどう料理したか。

もちろん読み返していないので覚えていません。

アンケートを取るときに大した仮説も立てていなかったので、結果を見ながら「楽しい!」(とても興味深かったのです)と面白がるだけでした。

なんというもったいないことをしたのやら。

今の私なら、もう少しマシなまとめをするだろう…きっと…と思います。

 

アンケートに付き物のグラフ類もどうやって作れば良いのかわからず、エクセルを使える人を散々にこき使って作ってもらいました。

グラフだけでなく、中身も一緒に考えてもらいました。

彼がいなかったら、卒業論文は出来上がっていません…情けない。

ごめんなさい、ありがとう。

 

とはいえ、この卒業論文

大学4年間で最も勉強になりました。

数多ある講義を居眠りしながらろくに聞いてもいなかった私ですが、卒業論文だけはかなり真剣に考えました。

読み返してみたら「真剣にやってこれ?」という出来のはずですが、本人基準ではがんばったのです。

だから、やって良かった…と今では思っています。

出来栄えはともかくとして。

 

 

惜しむらくは四半世紀も経った今、青年伝道について既に興味が薄れてしまったことです。

重要な問題であることはわかっているのですが、私の興味はやはり「死生観」や「死と葬儀」の問題の方にあります。

最初からがんばってそちらのテーマに取り組んでおけば良かったと思ったりもするのですが、これもまた私の若さと言いますか、弱さと言いますか、回り道でしたと思うことにしています。

そして今、その第一の興味に真剣に取り組んでいるかと聞かれれば、特に本を読んでいるわけでもないし、毎日の生活の中で頭の中をゆらゆらと漂わせているだけなのです。

 

それでも、年は取る。

周囲の人が、少しずつ亡くなっていきます。

それだけでも大きな問題提起を、私の脳みそにしてきます。

 

そして、気付きました。

死の問題は、「リアル」だと。

本を読んでどうなるものではなく(学者は別ですが)、実地体験として否が応でも取り組むことになる問題なのだと。

 

そう思ったら、やはりきちんと本を読みたくなりました。

読もう、なんでもいいから。

そう、まずは聖書から。

生と死と復活の書物から。

基礎は聖書です。

 

元日から始めた聖書通読。

順調に進んでいます。

 

ちゃんと大晦日に読み終わるといいな。

 

 

 

五目焼きそばの独り言

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両親と一緒に外食してきました。

少し大きな中華料理店の五目焼きそば

とてもおいしかったです。

様々な種類の野菜やお肉、海鮮、きのこ。

あたたかいあんかけでとろり。

少し焼いた麺にドバッとかけて。

五目、って、楽しいなと思いました。

 

人間の世界って、五目焼きそばみたい。

似たものはあっても、同じものはない。

みんながみんな、いろんな顔してる。

でも、世界というあんかけの中に収まって。

私もこの具の中のひとつなのだな。

 

…なんて感じながら、食べていました。

そして、思いました。

神様はこの具沢山の人たちを、全員もれなく愛しておられるのだろうか。

中には愛しておられない人もいるのではなかろうか。

もしやそれは、私では?

神様の愛からこぼれ落ちる存在なのかもしれない。

そう考えると、とても孤独を感じました。

 

聖書の神様は、意外と怒りっぽくて怖いです。

あまりニコニコしたイメージはありません。

いつ怒りの鉄槌が来るか。

私のような、神様にろくろく感謝しない人は、見捨てられてもおかしくない。

 

あまりそんなことを考えていても五目焼きそばがまずくなってしまうので、もっとおいしく食べようと、お酢をかけてみました。

なんと、びっくりのおいしさに。

なんだろうなぁ、これは。

食べる人と五目焼きそばを仲介するお酢。

エス様のようだわ。

 

いつもこのようなことを考えながら食事しているわけではありません。

五目焼きそばの色とりどりな様子が、連想ゲームとなっただけでした。

 

自分が「ひとりぼっちだ」と感じる時、たくさんつまらないことを考えるものです。

今日はとても、孤独でした。

家族と一緒にいましたが、私はひとりでした。

今もひとりぼっちです。

 

誰かに助けてほしいけど、何もどうすれば?

誰だって、ひとりぼっち。

ひとりぼっちの私を、ちっぽけな私を、イエス様は見守ってくださるのでしょう。

 

今はその実感はなくても。

きっと。

 

 

 

 

「キリスト教における死と葬儀」

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キリスト教における死と葬儀」石居基夫著

 

***

 

昨年に一度読んだ本を再読することから、今年の読書を始めました。

ちょっとだけ、感想。

 

この本のサブタイトルは、「現代の日本的霊性との出会い」です。

キリスト教における死と葬儀についてのお話と、日本的な死生観についてのお話が書かれています。

 

キリスト教の死生観や葬儀のことは、他のたくさんの本でも出会うことができますが、この本には、日本的な死生観、日本人の気持ち、何やらよくわからないけど日本的なもの、とキリスト教がいかに出会えるかが、とても丁寧に用心深く表現されています。

 

多くの部分は、キリスト教的な死と葬儀の考え方や取り組み方、心構えも含めて、クリスチャンの人にとってとても実践的なテキストとしてとらえることができました。

家族の中で自分だけがクリスチャン、またはクリスチャンばかりの家族に教会に行かない家族が一人、など、様々な境遇の人が参考にできることも書いてあります。

それらは本当にわかりやすく丁寧に描かれていて、身近な人のために、自分のために、気持ちを常に整えておかなければという備えに、読んでおきたい理想的な教科書とも言えます。

 

しかし、この本の中で最も印象的だったのは22章「桜とゆり〜日本的死生観とルターの死と復活の理解」でした。

「桜」を日本的なものの象徴として、そして「ゆり」をキリストの復活の象徴として対比させながら、キリスト教がいかに日本的な伝統や宗教観、死生観に語りかけることができるだろうかということを、少しずつゆっくりとかみくだくように描いていっています。

 

桜を愛し、桜を追いかけ、桜の木の下で集う私たち。

桜の木の下には何かが埋まっていそうだと感じてしまう私たち。

長い長い日本的な文化の中で、いつの間にか染み付いている「何か」を深く感じます。

 

そこに、「ゆり(キリストの復活)」が何を働きかけることができるのか。

すぐに答えの出ることではないけれど、この桜とゆりの美しい対比と、著者の石居先生からの優しい語りかけに、日本で生きるクリスチャンってどんなものだろうと、あたたかい気持ちで考え直すことができます。

 

また、日本的なものをじっくりと味わうことの大切さも、改めて感じさせられました。

この本を読みながら、三島由紀夫をもっとたくさん読みたいなと思った次第です。

 

一度読んでおしまい、という種類の本ではなく、常に手元に置いて何度でも読んで考えたい。

そんな本でした。

 

あ、「悼む人」の天童荒太さんと著者の石居先生による対談もありました。

でも私は、「桜とゆり」の章の印象が強すぎて…(^_^;)スミマセン。

 

石居基夫先生、良いご本をありがとうございました。

 

 

 

 

今年最初の日曜日

朝、起きる。

昨日の日記を簡単に書く。

聖書を読む。

コーヒーを飲みながら、朝食を適当に。

ほんの少ししか食べない。

薬を飲む。

薬を飲む。

薬を飲む。

忘れずに。

SNSのチェックをする。

facebookTwittermixi、LINE。

たくさんあるけど、それぞれ役割が違う。

みんなに助けられている。

パソコンを起動する。

バッハをかける。

今日は、マタイ受難曲

指揮はヘルマン・シェルヘン。

そして、ぼんやりと考える。

 

今日は、今年最初の日曜日。聖日主日

1月6日が公現日、とか言われます。

英語で言うとエピファニー

教会ではこの辺りまでがクリスマスの暦。

ま、そんなに意識しなくてもいいのです。

 

クリスチャンならば、本来教会へ行く日。

それが日曜日。

しかし、私は行きません。

前の記事で書いたように、病気をしています。

そして、私の通う教会は少し遠い。

だから、滅多に行かれないのです。

 

精神にゆとりがあれば、ネットで礼拝します。

いつもお世話になるのが、下谷教会さま。

Ustreamで中継してくださるので、ときどき。

もう何年もお世話になっています。

いつも素晴らしい説教で、感謝しています。

でもそれも、毎週は困難です。

頭がぱんぱんになってしまうのです。

 

30歳くらいで結婚するまでは、教会を休んだことはありませんでした。

もちろん体調が悪くて休むことはしばしばありましたが、基本的には行かない選択はありませんでした。

結婚後、当時の夫がクリスチャンではなかったため、そして私の病気が発症し始めていたため、全く行かなくなりました。

すぐに離婚したのですが、さらに病気が悪化したために、いよいよ教会から離れて行きました。

 

その頃に比べたら、今は本当に良くなりました。

でも毎週のように教会へ行く生活には、まだ少し遠い。

 

今頃、私の通う教会でも、礼拝が始まっています。

10時半からなのです。

下谷教会でも、始まっています。

こちらも10時半から。

今日は、ちょっと、無理みたい。

 

そして、ぼんやりと考える。

 

 

何のために、教会へ、行くのだろうか。