ぼたもち(仮)の重箱

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「キリスト教における死と葬儀」

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キリスト教における死と葬儀」石居基夫著

 

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昨年に一度読んだ本を再読することから、今年の読書を始めました。

ちょっとだけ、感想。

 

この本のサブタイトルは、「現代の日本的霊性との出会い」です。

キリスト教における死と葬儀についてのお話と、日本的な死生観についてのお話が書かれています。

 

キリスト教の死生観や葬儀のことは、他のたくさんの本でも出会うことができますが、この本には、日本的な死生観、日本人の気持ち、何やらよくわからないけど日本的なもの、とキリスト教がいかに出会えるかが、とても丁寧に用心深く表現されています。

 

多くの部分は、キリスト教的な死と葬儀の考え方や取り組み方、心構えも含めて、クリスチャンの人にとってとても実践的なテキストとしてとらえることができました。

家族の中で自分だけがクリスチャン、またはクリスチャンばかりの家族に教会に行かない家族が一人、など、様々な境遇の人が参考にできることも書いてあります。

それらは本当にわかりやすく丁寧に描かれていて、身近な人のために、自分のために、気持ちを常に整えておかなければという備えに、読んでおきたい理想的な教科書とも言えます。

 

しかし、この本の中で最も印象的だったのは22章「桜とゆり〜日本的死生観とルターの死と復活の理解」でした。

「桜」を日本的なものの象徴として、そして「ゆり」をキリストの復活の象徴として対比させながら、キリスト教がいかに日本的な伝統や宗教観、死生観に語りかけることができるだろうかということを、少しずつゆっくりとかみくだくように描いていっています。

 

桜を愛し、桜を追いかけ、桜の木の下で集う私たち。

桜の木の下には何かが埋まっていそうだと感じてしまう私たち。

長い長い日本的な文化の中で、いつの間にか染み付いている「何か」を深く感じます。

 

そこに、「ゆり(キリストの復活)」が何を働きかけることができるのか。

すぐに答えの出ることではないけれど、この桜とゆりの美しい対比と、著者の石居先生からの優しい語りかけに、日本で生きるクリスチャンってどんなものだろうと、あたたかい気持ちで考え直すことができます。

 

また、日本的なものをじっくりと味わうことの大切さも、改めて感じさせられました。

この本を読みながら、三島由紀夫をもっとたくさん読みたいなと思った次第です。

 

一度読んでおしまい、という種類の本ではなく、常に手元に置いて何度でも読んで考えたい。

そんな本でした。

 

あ、「悼む人」の天童荒太さんと著者の石居先生による対談もありました。

でも私は、「桜とゆり」の章の印象が強すぎて…(^_^;)スミマセン。

 

石居基夫先生、良いご本をありがとうございました。