ぼたもち(仮)の重箱

躁うつ病、万年筆、手帳、当事者研究、ぼたもちさんのつれづれ毎日

【小説】4 永遠に終わらない冬

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十二月三十日深夜


 子どもの頃から書いていた日記は気楽だったと、今になって思います。今の私は、日記にすら書けないことばかり。私の日々の生活は表面上は変わらないけれど、心の中は千々に乱れています。何故このような羽目に陥ってしまったのか、誰か教えてほしいものです。だけど、誰も教えてはくれません。相談もできないことを誰かがアドバイスしてくれるはずがありません。
 弟のまさみは、頭がおかしくなってしまったのでしょうか。それとも姉の私がおかしくなったのでしょうか。

 

 今夜は会社の忘年会に出席する予定でした。それなのに、まさみに「行くな」と妨害され、丸め込まれるような形で結局まさみと二人で帰ることになってしまいました。
 まさみは私を連れ回して疲れさせた挙げ句、電車の中でまた私に「好きだ」と言いました。私の耳のすぐ側で、二回も言いました。私はどうすればいいのか本当にわからず、余りにも混乱して、次の駅で電車を急いで降りました。まさみの隣にいるのが、いたたまれなかったのです。
 なのに、まさみは決して私の側を離れようとしませんでした。私が不意打ちを狙って突然電車を降りても、凄い速さで追い掛けてくるし、人混みに紛れて彼を巻こうとしても必ず私を見つけてつかまえます。私たちは年末の夜の街を、まるで鬼ごっこでもするみたいに走り回りました。一人にしてくれと頼んでも、まさみは絶対に承知しませんでした。忘年会で酔っぱらいだらけの道端に私をおいて行けるわけがないと言うのです。道理と言えば道理ですが、私はすっかり混乱して暴れました。周囲の人々が見ているのも知らず、離せ離せと暴れてしまったようです。まさみのことをバッグで滅茶苦茶に殴ったり、ブーツの脚先や膝で蹴り上げたりしたような気がします。余り覚えていません。
 私は生まれて初めて、まさみに頬を叩かれました。あれがビンタというものでしょうか。痛いと言うよりも、驚いたと言った方が適切かもしれません。誰かに叩かれたことなど今までに一度もなかったので、とても驚きました。少し痛いと感じたのは、しばらく時間が経過した後のことでした。
 引っ叩かれて大人しくなった私の手を引いて、まさみはゆっくりと駅に向かい、電車に乗りました。電車の中は混んでいて、お酒のにおいで一杯だった記憶が残っています。周囲には似たようなコートを着たサラリーマン達で溢れていて、みんな一様に赤い顔をしていました。大声で笑ったり喋ったりしていました。
 電車が揺れて身体が傾いた時、酔っぱらったサラリーマンが私にドンとぶつかってきました。謝ってはもらったけれど、その男が私のことを顔から脚まで露骨にじろじろ見つめたので、私は何とも言えず嫌な気分になりました。まさみはその男を一睨みして私の肩を抱き寄せ、その男の視線を遮ってくれました。弟に抱き寄せられるなんてと身じろぎしても、離してはくれませんでした。私自身も疲れ切っていて、もう何もかもどうでも良くなってしまい、目を閉じてまさみの身体に寄り掛かりました。理性では彼に寄り掛かることなど絶対にしてはいけないと思いつつ、私はもうすっかり疲れました。
 家の近くの駅を降りても、まさみは私の手を持って引いて歩きました。近所の人が見たらおかしいと思われる。でももう、いいや。疲れて投げやりになってしまい、私は黙って手を引かれながら歩きました。特に知り合いに会うこともなく、あっさりと家に着きました。
 玄関に入る前に、まさみから「さっさと部屋に入って寝てしまえ」と言われました。私の顔はひどく疲れていたらしく、両親に見せない方が良いと言うのです。誰のせいだと言い返したかったけれど、その前にまさみから「連れ回してごめん」と謝られてしまいました。何もかも、どんな時も、先手を打って出ることばかり。まさみのペースに巻き込まれてしまって、私は自分を見失いそうです。

 

 まさみと二人で玄関を上がって、まさみは居間へ、私は自分の部屋へ上がりました。階段を上がっていたら、まさみが「姉ちゃんに途中で会ったから一緒に帰ってきた。疲れたからすぐに寝るって」と言っている声が聞こえてきました。まさみの声は、普段と全く同じでした。何故そんな嘘がつけるのか、何故そんな平然とした声が出せるのか、私には謎です。
 心底疲れていた私は、部屋に入って電気もつけず、服も脱がず化粧も落とさずベッドに転がりました。そして、そのまま眠ってしまったようです。

 次に目が覚めたのは、周囲が突然明るくなった時でした。誰かが私の部屋の蛍光灯を付けたのです。眩しさで思わず目をこすりドアの方を見ると、まさみがパジャマ姿で身体半分だけ覗かせて私を見ていました。私は寝ぼけていたので、そのまま寝返りをする形で背を向け、電気を消せと呟いた気がします。まさみが「風邪引くぞ」と言いながら入ってきて、私の身体を揺さぶりました。「寝るんならせめて着替えて寝ろ」と言われたようです。私がうるさがっても、まさみはしつこく揺さぶります。私は仕方なく起き上がり、溜め息をつきました。この辺りから記憶がはっきりしています。
 ちゃんと着替えて寝るから出て行けとまさみを追い出し、私は服を脱いでパジャマに着替えました。ふと鏡を見ると、とても疲れた顔をしていました。二日酔いになってもここまでひどくないのではないか、というくらいに疲れた顔でした。時計を見ると午前一時を過ぎていましたが、私はよろよろしながら頑張ってシャワーを浴びました。
 シャワーを浴びている間に、今日の夜のことを順番に思い出していました。そして今、日記に書き付けているのです。

 

 書けば書くほど、私の頭の中は支離滅裂になっていきます。
 まさみに振り回される毎日なのに、まさみは至って平然としています。まさみが賢いのか、私が馬鹿なのか、少なくとも私が感情的で冷静さが足りないということだけは自覚できました。彼が賢いのかどうかは分かりません。単なる性格の違いなのかもしれません。
 もしも、もしも私とまさみが他人だったらと、一瞬考えました。けれども一瞬だけで、その「もしも」は消えました。仮定の話を思い浮かべても意味はないし、誰が何と言おうと私たちは他人ではありません。同じ血が流れています。まさみが言うような「好き」という状態に陥ってはならない関係性です。そして彼もこのことを分かっていると言う。
 ならば、何もなかったことにすればいいのに、一度言ってしまった言葉は呑み込むことができないものです。私も一度聞いてしまった言葉を聞かなかったことにはできないし、記憶喪失にでもならない限り忘れることが出来ません。知りたくなかったことを知ってしまった時、何とかしてそれを忘れたい時、一体どのようにすれば良いのでしょう。やはり家を出るしかないのでしょうか。実家から離れて、まさみから離れて暮らせば良いのでしょうか。けれども私がアパートを借りて一人暮らしを始めたとしても、そこへ彼がやって来たらどうすれば良いのでしょうか。考えるだけで恐ろしい。まさみをそんな下品な男だと思いたくはありませんし、私はまさみを信じています。でも、やはり怖いです。結局、両親のいる自宅の方が安心なのかもしれません。

 

 しかし私は分かっています。問題は、住む場所や物理的距離ではないということを。問題は、彼と私との「心」にあります。私に恋愛感情を抱いてしまったまさみと、拒みながらもどこかで悪い気はしないでいる私。心臓の表面の皮をべろりとめくってみたら、もっと恐ろしいものが見えるでしょう。見たくないから今は見ないだけで、既に半分ほどは覗き込んでいる私がいます。
 こうやって文字を綴っているだけでも、私の脳裏に浮かび上がるのは、まさみの長い睫毛や伏せた二重のまぶたや、若いくせに落ち着き払ったような瞳や、煙草に火をつける仕草や、胸や背中の広さや、手の、腕の優しい力強さや、とにもかくにも彼のことばかり。これではまるで、本当に恋をしているみたいです。姉が弟に、恋を。許せない。許し難いことです。

 

 どうせ生まれて来るなら、私は別の両親の元に生まれれば良かった。それとも、まさみがよその家の子だったなら。他人でなくとも、せめていとこであったなら。せめて~だったなら、などと考えてみたとしても詮無いこと。それでも考えずにいられなくなっている私は、もう恋をしているのでしょうか。
 認めたくない。認めたくないのです。決して。
 当のまさみは、一体何を考えているのか私にはわかりません。訊ねるのも嫌です。立ち入った話になって、抜き差しならないことにでもなったらと思うと、私には勇気がありません。

 

 疲れているのです、きっと。ひどく疲れているから、こんな日記を書いているのでしょう。しばらく休めば、私も元通りになれるはずです。今までと同じように、仲の良いきょうだいに戻れるはず。戻るべきです。それが常識であり、分別です。
 疲れているだけです。もう、真夜中です。疲れるに決まっています。
 今日は、とても、疲れました。
 何もかも、どうにでもなれと捨て去りたくなるほどに、疲れました。